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「古武士(もののふ) 第10話 高知高校」 
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卒業を間近に控えた伯のもとに、四か所の就職口が寄せられた。 
学校を出ても容易に就職ができない時代に感謝すべき事ではあったがしかし、伯の心は動かない。 
伯の頭には海外に行く事しか関心が無い。 
まずアメリカの兄の所へ行ってそこにしばらく滞在して、それから人生設計をそこで立てると言うのが伯の年来の計画だった。 

時は昭和十二年、近衛内閣が発足し、直後に中国で蘆溝橋(ロコウキョウ)事件が勃発した。 そんな時代のなか卒業を前にしたある日、伯は校長室へ呼ばれた。 そこには旧制高知高校の校長石倉小三郎が待ち構えていた。 

是非正課の柔道と柔道部の指導をお願いしたいという赴任の要請であった。 
伯は即座に断った。 
何処で伯の活躍を見聞きしたのか、石倉の伯への執念は強く
間を置かず二度、三度と尋ねて来る。 
その度に校長室での押し問答であった。 

最後に武専校長は伯に言った。 
「君のことを四年間も武専は面倒を見たのだ。
一度ぐらいは校長の言うことを聞け!」 とうとう伯は折れた。 「それほどまでに私の事を必要としてくださるのなら、二年間で良ければ行きましょう」 二年も勤めれば義務は果たせるだろうとの考えだった。 


武専の卒業生は柔道教師として旧制中学校へ赴任するものは多かったが、上級の高校への赴任はきわめて珍しかった。

昭和十三年(1937)四月、道上伯二十五歳の春だった。 
  
 
旧制高校を卒業すれば、よほどのことが無い限り旧帝国大学に進学が出来たから 高知高校は言わばエリート集団の学校である。 
そのような学校が新進気鋭の道上伯に柔道部、ひいては全学生の
指導を依頼したのであった。 

当時の柔道部OBは伯が道場に現れた初日のことを次のように語った。
「凄い先生が来ると評判で、みんな興味津々で見ていました。 
道上先生が柔道着に着替えて入ってくると、一人身体の大きいものが、 お手並み拝見とばかりに『お願いします!』と言って先生の前に進み出た。 
先生は無言で頷くと、その男の前に立って相手の柔道着の両襟をひょいと掴んだ。 
間もなくその男がそのまま膝を折って崩れ落ちた。 
立ったまま絞め落とされてしまっていた。 
こりゃ噂以上に凄いと、みんな居住まいを正して緊張しました」 

伯が赴任した時には校長は石倉小三郎から長岡寛統に代わっていた。 
伯が赴任してすぐ、新校長と新しい職員の歓迎会が 得月楼で行われた。 
得月楼は「陽暉楼」という映画の舞台にもなった高知一の料亭である。 

長岡新校長は日本有数の酒豪が揃う土佐(一人当たりの酒消費量が日本一)でも群を抜く「五升先生」と呼ばれるほどの酒豪だった。 
乱れ飛んだ宴席の中で長岡は伯に「君は全然乱れないなあ」 端然と座していつまでも飲み続ける、そんな武道家らしい伯の飲みっぷりが気に入ったようだった。 
そのまま二人で徹夜して飲んだ。 (愚息曰く「父道上伯が生涯にわたって酒で乱れた姿を見たことが無い)

翌朝長岡は全校教師と学生を集め400メートルのトラックを走れと命じた。 
当然自分自身が先頭を切って走った。
それに伯は続いた。 
走りながら並走する道上に長岡が言った。
「君とは気が合いそうだ。また飲もう」 そうしてほぼ毎晩得月楼へ繰り出し、休日には釣り船を出して釣りをしながら朝方まで飲んだ。 

ある日のこと、伯はある小料理屋のカウンターで一人飲んでいた。
隣に座っていた、がっしりとした男が突然伯の頬を強く殴った。 伯は知らん顔をしていたが、その男はもう一度強く殴ってきた。 それでも伯が平然としていると、今度は立ち上がって殴りかかって来た。 
素早くその男の腕を掴み、「どうしたんですか」と尋ねる。  
周りの人たちはみんなで「そうだよ見ていたよ、若い人殴っちゃいなさいよ!」と騒ぎ出した。 
よく聞くとその男は憶えていないと言う。
酒乱である。 
その数日後、伯に丁重な詫び状が到着した。その本人からだった。 高知警察署長と書かれてあった。

伯は皆に好かれた。
だが身内には厳しく接した。 

10歳離れた弟の武幸を高知に呼び寄せ面倒をみることになったが、 毎朝五時に起床させ、少しでも遅れると拳骨がとんだ。 
ストップ・ウオッチで時間を計りながら走らせる。
遅いと拳骨がとぶ。 
さらに毎日猛勉強させそのかいあって見事高知高校に入学させた。 
愚息雄峰も父伯と会って叩かれなかった日は18歳になるまで無かった。 
その後?18歳以降叩かれることがなくなったのは、雄峰が単身で日本へ帰ったからである。 

ただ、その武幸は父安太郎からの仕送り、アメリカの長男からの仕送り、伯からの多大なお小遣いをもらっていた。 
ちなみに愚息雄峰は父から小遣いを貰ったことが無い。 

伯が赴任して二年近く経った。 
県の高専大会に出れば一回も勝てなかった高知高校も、その頃には黒帯を二十人以上も擁し、 全国高専大会でも堂々と戦える部へと鮮やかに生まれ変わったのである。 

そこには伯が、正課では柔道の合理性や楽しさに重点を置いた穏やかで優しい指導を心掛け、 多くの部員を集め、部活動においては徹底した基礎訓練、そして練習量がものを言う寝技を教え込んだからに他ならない。 

この頃に恩師田畑昇太郎から耳寄りな話が寄せられてきた。 
中国上海にある東亜同文書院大学に教員として行かないか、と言う話である。 かねてから海外に出たいと考えていた伯にとっては願っても無い話である。 
アメリカでスタートを切りたいと思っていた伯だが、上海は世界随一の国際都市である。
次回は「結婚」

 
 【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

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