第三章 別離の記憶 ⑨ 林正順 5 赤井のチマチマした集落のまん中に桜の古木があり、その木の下に風雨に晒されて色あせた稲荷の祠がある。 その隣に昭栄館という倉庫のような木造の映画館があった。 いかにも、古ぼけたものが3つ集まっていると言った風景だった。 どういうことでそうなったのか、その日曜日の夜、きよのと勝と、 そして林の3人が昭栄館の長い縁台のような粗末な椅子に腰かけて 「青い山脈」を見た。 150人か200人かしか入らない狭い板張りの客席はほぼ満員で、 勝たちは中ほどの右端あたりに座った。 腰をかけるときにきよのがマゴマゴしていたので、勝が強引に手を 引っぱって、林の隣に座らせた。 勝は、女子学生の若山セツ子もいいけれど、芸者役の小暮美千代も いいなと、暗闇で小生意気なことを考えながらも、隣の母親と その向こう側に肩をくっつけるように座っている林の様子を 何気なく気にしていた。 2人は映画館の前で出会ったときは「今夜はどうも」「いやあ、どうも」「勝がいつも・・・」「いえ、別に・・・・」などと、歯切れの悪い、あいさつを交わしたきり、あとは黙りこくっている。 3,40分もするうちに、勝はもうシビレを切らしていた。 どんな面白い映画でも、ホソッコイ板ぺらの長椅子に1時間半も クギづけにされるのはガマンならない。 それならまだ学校の教室の廊下に立たされている方が飽きがこない それに、どんなに長くても授業時間は50分ほどだ。 どうせ先生に指名されず気がラクだから、50分は短いくらいなのだ。 勝はオシッコに行くふりをして席を立ち、そのまま映画館を出た。 映画が終わる時間を調べて、あらためてこの入り口に帰ってくるつもりだった。 やっぱりこのままトンズラしてはまずい。 母親と一緒に家に帰るほうがいいと思ったからだ。 秋も終わりに近く、あたりはめっきり冷え込んでいた。 ミノルの家にでも行ってみるつもりだった。 ミノルの父親は平市の海産物の問屋に勤めていたが、ミノルは ぜいたくにも四畳半の部屋をもらっていて、その部屋は裏から そっと出入りできるのだ。 ミノルと、はさみ将棋でもやっていれば時間はつぶせる。 勝は役場の裏のミノルの家に向かって全力疾走した。 きつい冬が来て、やがて、そこここの草木にもようやく春のきざしが見えはじめるころ、勝は大きな失敗をしでかした。 それもやはり、ちょっとしたいたずらごごろだった。 勉強というのが大嫌い。 とりわけ国語と算数がトコトン苦手ときているサカエだが、このあたりまでは多少は質の差があるものの、ミノルも勝も似たようなものだ。ただ近頃の勝には、林の影響のせいか、何とか本を読もう、 勉強もしなくてはという気持ちが、胸の底に芽生えている事も事実だった。 だからこそなお、と言えるかどうか、サカエの国語などに対する ダメさ加減がひどく気になっていた。 授業でサカエがあまりぶざまだと、勝は自分のことを棚にあげて つい舌打ちした。 平駅前のヤマニ堂書店はこのあたりでは、たった一軒の本屋だった。 勝はふと、さまざまな本が整然と並んでいる書棚を見上げた。 5,6冊の辞書が目に入った。国語辞典だった。 どうせ紙の質は良くないだろうし、本の造りも雑に違いなかった。が、金色の背文字はどれもこれも立派だった。輝いて見えた。 じつは勝自身も、一冊国語辞典がほしいと思っていた。 でも安いのでも300円、ちょっと手重りのするのは500円はするはずだ。そんなカネがあるわけはない。 身の周りに人影はなかった。 勝は薄茶色の国語辞典を1冊、堂々と引きぬくと、そのままヒラヒラした上っぱりの裾から腋のほうへ押しこんだ。 しっかり左腋で挟み込んだ。 もう1冊クリーム色の表紙の国語辞典をためらわず引きぬき、さらにまた、上っぱりの裾から突っ込んでそれとなく、右手で押さえながら涼しい顔をして店を出た。 駅とは反対の方向へ歩きはじめた。 半分戸を閉めたような乾物屋があって、その角を右折した。 何でもないような顔を作り、堂々と落ち着き払って店を出たつもりなのに、額にはじっとり汗が浮いていた。尻がムズムズした。 ――でも、何とかサカエの分と2冊、国語辞典を手に入れたぞ。 ガサゴソと嵩ばる上っぱりの下の国語辞典をあらためて確かめようとしたとき、あとから突っこんだクリーム色のが、どさっ!と 地べたに落下した。 あわてて拾いあげようとかがみこんでのばした手を、だれかがグイと掴んだ。 勝の脳髄が、ガン!と鳴った。 続く