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        第三章  別離の記憶       ➉ 林正順 6
        
        メガネをかけたヤマニ堂書店の店番の女性だった。
        25歳くらいの眉の濃い、顔の小さな女だった。
        あの店の娘なのかもしれない。
        メガネがキラリと光った。
        勝はクビをすくめ、すぐ「ごめんなさい!」と言った。
        事実背筋がゾクゾクとして、心臓がギュっと痛みをともなって
        チジンダ。
        「かんべんしてください。許してください。おカネがないのに
        つい国語辞典がほしくて・・・・ごめんなさい!」
        そのまま土下座していた。
        「近いうちに、きっとおカネを持って買いにきますから、どうか
        カンベンしてください!」頭を下げた。
        突如、目から涙がしたたり落ちた。
        ごめんなさい、ごめんなさいを繰り返した。
        でも、左腋で挟んでいるもう1冊の国語辞典は落とすまいと
        必死だった。
        メガネの女性は腰を落としてかがみこんだ。
        紺色のスカートがふわりと動いて、ふしぎな匂いが勝の鼻孔を打った。懐かしいような切ないような、甘ったるい匂いだった。
        「いいこと」と、メガネの女店員が言った。
        「天知る、地知る、人ぞ知るてことばがあるのよ、おぼえておきなさい」
        勝は妙に朱い唇の動きを見ていた。口紅なんかつけていない、
        ふっくらした唇だった。
        「どんなにコッソリやっても、ドロボーなんかすれば、すべて天に
        見られている。すべてが地に知られているということよ。いくら
        周りの目をごまかしたと思っても、結局は自分をごまかすことは
        できないでしょ。この盗むという行為は、あなた自身が一番よく
        知っているのよ」
        勝は正直、なるほど!と思った。
        女店員は、学校の名と自宅の住所と名前を訊いた。
        学校には内緒にするけれど、あなたのために家の人には知らせると言った。そして、近いうちにお小遣いを貯めて正々堂々とこの
        国語辞典を買いに来なさいと言って、さっさと路地を出て行ったのだ。
        勝は思わず、「もう一冊あるよ!」と言いかけて、結局は言い出しかねてやりすごした。
        この国語辞典は、予定どおりサカエにくれてやった。
        「勉強しろよ」と一言そえてやった。
        
        2,3日して勝は林に呼ばれた。
        昨夜、思いがけなく遅い雪が降った。たいして積もりはしなかったが、寒気はきつかった。ほんとうの春になるには容赦なく寒いこんな日を何回か送り迎えしなければならない。
        林は風邪をひいて熱っぽいので工事現場の仕事を休んだと言った。
        つぎはぎだらけの薄いふとんをかけた炬燵で向かいあった。
        勝はすぐ、今日の林はとても寂しそうだな、と感じていた。
        林はいつものように、かりん糖五つと渋茶を出してくれた。
        注ぎ口の欠けた、どびん、だった。
        林はまじまじと勝の顔を見て、そのまま沈黙した。
        勝はしかたなくニヤリと笑って、かりん糖を一つつまんで、
        カリコリと食べた。
        「勝くん、今日はね、僕から頼みがあるんだ。いや、これは、
        お母さんから言われたから言うんじゃない・・・」
        ヤマニ書店の盗みの件だ。
        あの女店員から母に伝わり、母から林に伝えられたのだと、勝は
        悟っていた。こうなると思っていたのだ。
        「ぼくにきちんと約束してくれないか。もう絶対盗みなどしないと」
        林には、サカエの分の国語辞典をせしめていることは、知られていない。それを知られたら母親きよのも林ももっと嘆き、もっと怒るだろう、と勝は考えたりする。
        「聞いているのか、勝くん」
        勝は声を大きくして答えた。
        「聞いている!」
        
        実は、林や、きよの、と一緒に映画を観に行った日のあと、
        勝はきよのから、林についてのあれこれを語り聞かされていた。
        いや、とくに、林正順の兄の正光についてである。
        戦争の情況が急激に悪化した昭和19年――とくに11月ころから、B29の空襲が定期的に、そして激しさを加えていったことを
        きよのは語った。
        この福島のいなかでは、それほど緊迫感は感じられなかったが、
        都市を中心とした軍需工業地帯への爆撃は凄惨をきわめ、
        日を重ねるごとに街は無残に壊滅し、死者怪我人は続出した――
        そんな東京の中野区に暮らしていた林一家は、B29の爆撃よりも、
        息子正光がスパイ容疑で拉致されていることで翻弄されていた。
        正光は中野の警察からどこかへ移動させられていて、やがて取り調べ中に心臓発作で急死したという一方的な通知があった。
        父親正春は、決して正光にスパイ行為などなかったと口惜しげに言い続け、やがて正春自身もみずからの体を苛むようにして床に伏した。正順は、通っていた大学の友人の伝手を頼り、病身の父親をつれて、この福島の隆生寺の小屋に隠れるように移り住んだのだという。
        学校もの退き父親の看病に専心した。
        だが、その父親も、8月15日の敗戦の日を待たず、ろくに医者にも診てもらえないままに逝ったのだった。
        林正順は、身寄りもない異郷の地で、ひとり生き残って日本の敗戦を知った。
                                 続く
        


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