第三章 別離の記憶 ⑫ 林正順 8別れ 「僕は一週間後ここを出る。中国の四川省に帰る。お寺の和尚さん ご夫妻にはもうきちんとあいさつしたけど、他の人には一切言っていない。実はね、あと十日したら・・・つまり、僕がここを出た後で この包みを勝くんのお母さんに手渡してほしいんだ」 タテ40センチ、ヨコ30センチくらいの大きな本のようなものが、 ゴワゴワしたハトロン紙に包まれていた。 「勝くんのお母さんには、いろいろお世話になった。でも僕には何も お礼が出来ない。これはお礼のかわりに受け取ってもらいたい物だ。 ただ、僕がいなくなってからあけてほしいんだ」 「どうして、林さんから渡さないの?」 勝は思わずそう訊いていた。 「うーん」 林は微笑してから、小さな声で言った。 「つまり、恥ずかしいから」 それから一日おきぐらいに、勝は隆生寺の庫裏を回りこんで、林の 小屋を訪ねたが、たいてい留守だった。 そしてついに、そのまま1週間が過ぎてしまい、あわてて駆けつけたときには、隆生寺のおばさんに「林さんはきのう、すっかり引き払ったよ」と言われて、しおしお帰ってきた。 勝は急に思い出して、林から預かった紙包みを母親きよのに渡した。 きよのは、そんなことはまるで知らなかったと、勝を恨む様に言い、 急いで紙包みを開いた。 銀色の額に納められた絵が出てきた。 きよのの肖像画だった。 髪をきっちりと束ねて、優しい目でまっすぐこっちを見ていた。 ホンモノよりずっと美人だな。と勝は思った。 やっぱり林は、おれの母さんを好きだったんだと思いいたると、 なぜか急に、胸の内側がザワザワと揺れ動いた。 一通の白い封筒が入っていた。 きよのはその封筒の中から、3、4枚の便せんを取り出し、目を 大きく見開いて字を追った。 いつか勝のために「良樹細根」「大樹深根」とメモ用紙に書いた のびやかで巧みなペンの字が便せんにびっしり埋まっていた。 きよのは、それとなく体の向きを変え、勝に背を向けるようにした。 勝は、そっと立って外に出た。 きよのは、きっとあの林の手紙を読んで、ポロポロ泣くんだろうな と思った。 何の理由もなくそう思った。 どこからかラジオの音が聞こえていた。 ケンジの家のラジオだろう。 「星の流れに」という歌だった。 勝は好きでなかった。 歌っている歌手が、泣き声そのままのようなジメジメした声で 押しつけがましいのだ。 赤井駅に下り列車が入ってきた。5時45分だろう。 淋しい駅のあたりに、ひとしきり乗降客が行き来して、 一時また賑わう。 ―― 林さんはもうどのへんにいるのかナ。 勝は深い紺色に暮れなずむ空を見上げた。 赤井岳の上に、一つ星が出ていた。 遠くを走る磐越東線の汽笛が鳴ってた。 第3章別離の記憶終わり 第4章へ続く