第68回
生きていれば今年100歳となったはずの故ケネディ大統領の夢(後編)
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思い起こせば、ケネディ大統領が就任宣誓を行ったのは1961年の1月のことであった。
そして同年、CIAが深く関与したキューバへの侵攻計画「ベイ・オブ・ピッグズ」が明らかとなり、CIAがその責任を問われることになった。
計画に関与したCIAや米軍の幹部からすれば、アメリカの裏庭と言われるキューバにカストロ政権が誕生したことはゆゆしい事態であり、この共産革命家を力づくで、排除しようとしたことも当然であろう。
そのため、キューバからアメリカに逃れてきた政治難民たちを訓練し、キューバへの侵攻計画を進めたのがCIAであった。
しかし、ケネディ大統領はこの計画を知るや、その中止を強く求めたのである。
なぜなら、ケネディ大統領はカストロ議長との話し合いの可能性に賭けていたからだ。
その結果、CIAも米軍も、そしてキューバからの逃亡者たちもケネディ大統領を激しく非難し、ケネディ大統領の意向を無視してキューバ侵攻計画を強引に進めることになった。
実は2000年に公表されたアメリカの機密文書によって、CIAはソ連がキューバ侵攻の1週間以上前に、その情報を掴んでおり、その情報をカストロに伝えたことが明らかになっている。
ところが、そうした動きをCIAは掴んでいながら、ケネディ大統領に報告していなかったのである。
なぜ、CIAはそのような行動をとったのか。
考えられることは、キューバ侵攻計画が失敗したことの責任をケネディ大統領に負わせるためと考えざるを得ないだろう。
こうした事態を受け、不信を募らせたケネディ大統領はCIAのアレン・ダレス長官を解任した。
皮肉なことに、ケネディの怒りを買ったがダレス長官は、その後、ケネディ大統領暗殺事件究明委員会(通称「ウォーレン委員会」)のメンバーになり、ケネディ暗殺の真相解明の責任者になったのである。
しかも、ダレス前長官の補佐官を務めていたのがチャールズ・カベル将軍であったが、彼の弟であるアーリー・カベルはケネディ大統領が暗殺された当日、ダラス市の市長として大統領に同行していたのである。
こうした一連の不可思議な動きから推察されるのが、自分たちが仕えるべき大統領の足を陰で引っ張る、もしくは大統領を陥れる、そのような動きをする政府内の反政府勢力が軍事、外交両面において、破壊工作を続けていたという悲しいばかりの現実であろう。
1961年、ケネディ大統領は、米軍がベルリンや東南アジアで核兵器の使用許可を求めた時点で、断固として拒否したのであった。
軍の幹部たちとの話し合いの場から出てきたケネディ大統領は、大きな声で、天に向かって、腕を振り回しながら、次のように叫んだことが記録に残っている。「あいつらは、気が狂っている」と。
要するに、平和志向の強いケネディ大統領は、1962年に発生したキューバ・ミサイル危機に際しても、キューバに対し、空爆や上陸作戦を展開しないように指示を出したのであるが、そうした発想や行動は首尾一貫していたわけである。
後に彼は親しい友人であったジョン・K・ガルブレイスに対し、「キューバへの軍事侵攻など、これっぽっちも考えたことはなかった」と心情を吐露している。
その後、1963年6月、ケネディ大統領はワシントンにあるアメリカン大学で衝撃的な演説を行った。
それは、「世界から核兵器を全廃する」と宣言し、そして「冷戦を終わらせ、それまでアメリカが軍事力によって追求してきたパックス・アメリカーナ(アメリカ至上主義)を終えよう」と訴えるものだった。
まさに、画期的ともいえる、完全な軍縮と平和のための新たな提案であった。
この演説の後、ケネディ大統領はソ連のニキタ・フルチショフ首相との間で、限定的核実験禁止条約を結んだのである。
1963年の10月、ケネディ大統領は、国家安全保障に関する「メモランダム126」に署名をし、その年の終わりまでに、ベトナムに派遣されていた米軍兵士1000人を撤退させることをも命令している。
そして、1965年末までには、残りの米軍も全て完全にベトナムから撤退させる旨を明らかにした。
こうしたベトナム戦争終結に向けての努力は、アメリカの軍人の常識を越えたもので、KGBを介し、ソ連のフルシチョフ首相との間で、繰り返し極秘裏の交渉を行うというものであった。
実は、フルシチョフ首相とだけではなく、ローマ法王ジョン23世との間でも度重なる話し合いがもたれた。
更には、カストロ本人とも、フランス人ジャーナリストのジーン・ダニエル等様々な仲介者を通じて、和解への話し合いを進めていたのである。
こうしたケネディ大統領の言動は、CIAや米軍の幹部にとっては、国家の安全を脅かすものとしか映らなかったに違いない。
しかも、ケネディ大統領が公式のチャンネルではなく、私的かつ水面下の交渉チャンネルを重要視し、冷戦の敵対国であるソ連やキューバと極秘裏に交渉を重ねていることは、国家の安全保障にとって、ゆゆしい事態である、と受け止められたとしても不思議ではない。
遅かれ早かれ、ケネディ大統領の方針とCIAや軍部との方針が激突することは避けられそうになかった。なにやら、トランプ大統領の女婿であるクシュナー氏が大統領選挙中に、ロシアとの非公式バックチャンネルの構築に動いた話と重なるではないか。
いずれにせよ、ケネディ大統領が戦争に反対し、和平の道を歩もうとするたびに、ケネディ大統領の内外での人気は高まったものの、キューバのミサイル危機が残した怨念はCIAや軍部の間に抜き差しならない不信感と敵愾心を極限状態まで高めたようだ。
言い換えれば、ケネディ大統領は冷戦時代の戦士という立場から、平和をもたらす天使の役割を果たそうとしたのであろう。そこにケネディの夢があった。
事あるごとに、ケネディは自分を狙った軍事的クーデターの可能性を示唆していた。運命の旅となったダラスへ向かう前の日の夜、彼は妻に対して次のような言葉を残している。
「でもね、ジャッキー。もし誰かが遠くの窓からライフルで私を撃とうと思えば、誰もそれを止めることはできないよ。
だから心配しても無駄さ」。歴史が証明しているように彼の懸念は的中した。
問題は誰も彼の懸念を理解したうえで防ごうとしなかったことである。
残念なことだが、1979年7月、アメリカの下院・暗殺検討委員会がまとめた報告書には「入手できる限りの証拠から判断し、ケネディ大統領が恐らく陰謀の結果、暗殺されたことは疑いの余地はない」と結論付けているにも係わらず、この報告書は闇に葬り去られてしまったようであることだ。
確かなことは、その後アメリカが、世界130の国々に米軍基地を展開し、その数は750カ所をゆうに超えるまでになっていること。戦後70年、世界各地で紛争や対立は絶えることはなく、米軍が関与しない戦争が起きなかった年は1年もないという現実。
今こそ、日本として世界の平和と繁栄に何ができるのか、真剣に向き合う時であろう。
アメリカの軍需産業のお得意様であり続けることは決してケネディの夢ではなかったはずだ。
次号「第69回」(6月16日発行)もどうぞお楽しみに!
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