「フランスでの生活 第29話 パリを離れる」
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いよいよパリを離れる事になった。
パリから南西南に向かって650キロ、ボルドーへ僕は下宿させられることになった。
パリを朝9時に出発、父の愛車Ami Six シトロエンの車だ。
6人の友という意味だが6人乗りというわけではない。5人でも窮屈な車だった。きっと602ccで3馬力と言う意味だろう。
父はよくパリーボルドー間を往復したが、僕は初めて。
当時電車よりも自動車の方が早かった。 道路網もしっかりしていて日本に比べ見易い標識のため、地図を片手に何処へでも行けた。 そんな高速道路で非力のアミ・シスはメーターでの最高速度120キロで、他車を追い抜こうとするものなら身体を前後に 揺さぶり勢いをつけなければ追い抜けなかった。 父はアクセルを踏みっぱなしだった。
そうすると120キロのメーターを振り切って130キロの速さで走る。
フランスと言う国は東にアルプス、南にピレネ山脈を除けば 殆どが平地。
景色も平坦で いくら飛ばしても景色に変化が無い。道もまっすぐに延々と続く。
その中を時速200キロぐらいで走る車にどんどん追い抜かれて行く。 父の隣に座っているため 余りある緊張感であったが、でなければ 寝てしまいそうなほど退屈だ。
途中パリから約270Kmのツール市(Tours)あたりで昼をとる。
ツール市、ブロワ市、アンジェ市はルアール川に面した古城が立ち並び、レオナルド・ダ・ビンチも晩年を過ごした風光明媚な観光地。 又フランスでもっとも綺麗なフランス語を話す土地柄で言葉のアクセントに品位が感じられる。 フランスをそしてワインを発展させた。レオノールアキテーヌ皇女がこよなく愛し晩年を過ごした場所。 だからワインも美味しい。
最近はモン・サンミッシェルがパリの次に人気だが。
以前はパリ、ベルサイユ宮殿そしてルアール川のお城めぐりが人気だった。
当時のフランス料理は美味しかった。 最近のヌーベル・キュイジーヌのようなこねくり回した料理ではなかった。 そして誰もが当然のように飲酒しても運転する時代だった。 ボルドーの赤ワインを飲み、道上も上機嫌だった。
やはり肉にはボルドーワインだ。 ルアール川の赤ワインはボルドーに比べ、軽すぎてコクが無いワインが多く、 ルアールは白ワインの方が有名だった。 中でもプイィ・フュメは美味しい。日本人イギリス人が大好きなシャブリなどに比べ軟らかく味わいが有る。 しかし塩味、脂身、コショウ味ときたら もうボルドーの赤ワインを飲まなくては食べられない。 父の飲みっぷりを尻目に、僕はいつかは飲んでやるぞ、と心に誓った。
勿論貧乏人のようにグラスワインなんてオーダーはしない。しっかり1本飲む。これはレストランに対する礼儀でもある。 フランスのキャフェなんかでは、
出てきた一本のハウスワインを半分飲んだ場合 半分の値段を払う。
ハウスワインにハーフ・ボトルは存在しない。フランスの食生活は豪快だ。
美味しい料理を食べ、ふたたび自動車に乗った。
ハンドルを握った父は突然僕に向かって
「雄峰 お父さんの運転は悪くないだろう」
「特別上手いとは言わないが、下手ではないだろう」
「今まで無事故だぞ」。
僕はお世辞が言えない要領の悪いガキ。黙ったままだった。
その直後、赤信号で前の車が急停止したため父は慌てて急ブレーキをかけた。
ブレーキを3度強く踏んだ。 だが雨上がりの石畳は滑りやすく、むなしくも前の車に追突してしまった。
父は僕に 「お父さんは3度ブレーキを踏んだのを見ただろう」と二度繰り返して言った。 僕は静かにうなずいた。
その後アングレーム市(Angouleme)経由でボルドーまで380Km、
数時間の道のり。 二人とも無言だった。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。