「フランスでの生活 第38話 アルカッションでの生活 4」
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1966年当時からフランスの殆どの高等学校には柔道部があった。
柔道は既にフランス第2位の盛んなスポーツになりつつあった。
フランスではテレビ視聴率で言うとサッカーだが、会員数ならテニス、その次が柔道だった。 フランスで一度は月謝を払って柔道を習った者は現在1000万人を超える。
現役でも80万人はおり、日本の30万人を大きく上回る。
フランスでは柔道をやる場合傷害保険に入らせられる。その被保険者人数である。
最も皆さんがびっくりするであろう事は、なんと世界のスポーツ人口でもっとも多いのが柔道であること。 柔道は日本発祥のものであるが、ヨーロッパから世界へ発展したとの認識が国際的である。しかし日本人は全くその認識が無くその点では無知同然である。
ボルドーから54キロも離れたArcachonでも フランス人生徒から「俺は道上に空手を習っている」と言うはったりをよく聞いた。 そう言ったやつはすぐにぶっ飛ばしていた。
父は確かに空手八段であるが、本人が教えることはなく、合気道とともに空手は梨元先生はじめ他の講師に任せていた。
最近ではメイユール・ウブリエ・ド・フランス(フランス一の職人と言う称号)に料理部門で、ティエリ―・マックスが選ばれ、彼は真に現在フランス料理界の最高峰に位置付けられているが、 彼は道上道場で柔道を習ったと言っている。が一度も習った事実は無い。合気道も道上道場で習ったと言っているがこれも定かでない。
そう言ったメデイアテイックな世界の者までに道上の名前は使われている。
道上という名は鈴木や田中の様に日本人に多い名前だと思われていたのだろう。
僕は決して道上の息子だとは言わなかった。馬鹿を自分で自覚していた。
道上の名をあえて汚したくはなかった。
だが柔道部の道場に行った日に柔道講師だけにはばれてしまった。
柔道講師の「先生(父)の(練習)許可を得てるのか」の問いに僕は何も言わず道場を後にした。 まるで道場破りの様に次々と全生徒を投げ倒した後のことだった。
当時柔道をやっているのは格好良かった。しかも尊敬された。
茶帯(1級)と言うだけで喧嘩を吹っかける者はいなかった。
確かにフランスの茶帯の方が日本の茶帯よりも格が上であった。しかし僕はいつまでも白帯だった。自分も父も僕が白帯であることに何の疑問も感じなかった。
中央にいるのが道上伯。ここにいる柔道家は皆、六段以上。
中には元フランス柔道連盟会長、現フランス柔道連盟会長、次期ヨーロッパ柔道連盟会長、がいる。
フランス人はスポーツが決して弱くないが、学校での体育の授業はアメリカ、イギリス、日本に比べ決して誉められたものではない。 体育の時間になると先生が生徒を集めボールを渡しサッカーか、ハンド・ボールをやりなさいと言って自分は他の女子教員にデレデレとデートの誘いをしている。
生徒は生徒でバカバカしく思い医務室へ行って休憩の許可を取りトイレで煙草を吸う。決して体育会系の国では無かった。 その内体育はパソコンでやるのではないかと思えて来る。
音楽の授業では全く楽器の演奏などやらず、音楽の歴史ばかりの授業で、イギリスなどに比べると音楽音痴の国だった。 ブラスバンドなどと言うものは皆無であり。一部のマニアックな連中を除くと、フランス人は田舎もんの音楽愛好家であった。
当時エルビス・プレスリーのフランス版のようなアメリカ系ジョニ・エリデー(Johnny Hallyday ) 、 ギリシャ系踊りながら歌うクロード・フロンスワ(Claude Francois )、イタリア系ベルギー人のサルバトーレ・アダモ(Salvatore・Adamo雪は降る)等が一般的流行りであった。
一方イギリスではヒットチャートにアーサー・ブランのファィアー、モニモニ等ヒステリックなものが多く、あか抜けていた。ビートルズもローリングストンズもすでに野暮ったかった。
僕はそのころイギリスへ1か月ほど滞在したが、フランス人は皆田舎者に思えた。
僕が好んだのはソールと言われていたオーテイス・レデイング、そしてロックでは:ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックス、ドアーズのジム・モリソン、ストーンズのブライアン・ジョンズ。
彼らは皆1960年代から1970年台の初頭に亡くなり。1970年代に入りピンク・フロイド、エルトン・ジョンなどにとって代わってしまった。
僕の音楽の青春はそこで終わってしまった。
それからはあまり音楽に興味を持たなくなっていった。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。