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        第41話 「フランス・アルカッション最後の生活」

        ________________________________________

        フランスに到着後パリに2年住み、 その後Robert (ロベール)さん宅に1年お世話になり、その後彼らにArcachonの中高の寮に入れてもらった。

        このご家族とは今でも仲良くさせて頂いていますが、当時はイヤでイヤで堪らなかったのが昨日の事の様に憶えています。

         

        そこでは一切日本語が使えず、日本語の本は全て取り上げられました。

        そのロベールさんの長男と次男は父の柔道の弟子であった為、きっと父の指示だったのだと思います。

        フランス語に専念させるようにとの命令だったのでしょう。

         

        現在は次男Bruno(ブルノ)がボルドーにある父の道場の後継となっています。長男Alain(アラン)にはフランス語と勉強全体を見てもらい、大変苦労をかけました。

        現在僕のフランス語が堪能だと言う人が居るなら、まちがいなく彼らのお陰です。

        しかし当時の僕にとっては大変嫌な存在でした。

        そして毎日が嫌で嫌で堪らなかった。

         

        これから僕はどの様に生きていったら良いのか・・。

        勿論ボルドーに住んいる日本人などいませんでした。

        今でこそ海外で生活をしてみたいなどと言う人も増えましたが、当時 思春期の僕には耐えがたい経験でした。

         

        フランス人でない僕がフランスで暮らす、当時は身近に前例がなく不安で大変な事でした。

        将来が見えないのです。

        人間が考えるという事は、インスピレーションという面もありますが、基本的には言葉の意味を積み上げ、応用し、答えを感じ取っていくことが多い作業だと思います。

        そういったなかで一つ一つの言葉の重みや意味の多様さ、そこから起こる自身の気持ちの不安定さ、味方が居ないと思う中 悩み続けました。

         

        やはり言語というものはまず一つをしっかりと身に付け、その上で他の言語を増やしていくのが正しいのではないかと今でも思っています。

        言葉とは、人間が自分自身にとるコミュニケーションでもあります。

         

        このままフランスに居ると自分は日本人で無くなる、自分のアイデンティティが無くなってしまう。

        自分が駄目に成ってしまうという衝動に駆られることが多くありました。

        月日が経つと共に日本語を忘れ、フランス語が上達していくにつれ、此処は何処?私は誰?といった現象が生まれます。

         

        僕が日本に帰った時に通った高等学校には、偶々1学年に数人の外国帰り(帰国子女)がいましたが、殆どが精神的に悩み、多くは精神病院に通っていました。

        一番の危険は2つの言語が同じレベルに達した時です。

        まず失語症にかかり、思っている事が言葉にならなくなる事を経験しました。

         

        フランスへ来てから、月日が経つにつれ早く日本に帰りたいの一心で 特に高等学校ではフランスにいられなくなる様に行動しました。 学校で暴れる程度ですが、ほぼ毎月職員会議に掛けられ、土日外出禁止、3日間停学、8日間停学などの罰則をくらいました。

        罪状は喧嘩だった。

         

        最後には決起して、無断外出です。

        ヒッチハイクをしスウェーデンを目指します。

        スウェーデンは捕まると自国に送還されるのを知っていての事でしたが、あいにく僕は未だ17歳。20歳を過ぎないと自身の意思では渡航出来ない時代でした。

         

        結局学校は退学となりました。

        ただ2番目の姉が結婚後日本に帰国していたので受け入れてくれることになり、しかも僕が絶対に受からないと言われた国家試験に受かった為、父も渋々了解することになりました。

         

        勿論ただで帰してくれた訳ではありません。

        森に連れて行かれ30分ほど平手打ちを食いました。

        頬が赤く染まり紫色に腫れ血が滲んでくるのです。

        恐怖心が痛みを上回っていた事を昨日の様に覚えています。

         

        父は柔道で世界54カ国の最高技術顧問であったため各地を回っていて会えるのは3ヶ月に一度でしたが、フランス時代を思い出すと、父と会っている日は毎日必ず父に叩かれていました。

        その反動で必ず誰かと喧嘩をしていました。

        そうしなければ自分が潰れてしまうのです。

         

        悪いことをするとボルドーの道場へ連れて行かれます。

        そこで世界チャンピオン級の柔道家に投げられるのですが肘を鳩尾(みぞおち)に押し付けそのまま倒れ込むという技をかけられる。呼吸が数秒出来ません。

        あるいは絞め落とされるのですが、落ちる寸前に技を解く。

        そしてまた絞められる。

        それを二、三回繰り返されるともう立ち上がる事すら出来ません。

         

        耳元で「すまんな~、先生が見ているので・・・。」

        そうです。父親が道場の隅にある事務室の小さな窓からこちらを見ている。

        スター選手である世界屈指の柔道家が技をかけながら済まなそうに言う。

         

        その翌日僕は決まって学校で大暴れ! ただ必ず相手は年上か、複数でした。

        でなければ僕の方が病院送りになるほど父にやられたのではないか・・。

         

        いよいよフランスを離れるという時、びっくりしたのは父と別れる時のことでした。

        父からファイルを貰ったのですが、そのファイルには「先生 大変恐縮です。お宅のお坊ちゃんは生徒3人と大喧嘩しました」

        そのあと「先生 大変恐縮です。沢山の贈り物ありがとうございます (ボルドーワイン12本)」 このような校長からの手紙が何通もファイルブックに挟まれていました。

        だからなかなか退学にならなかったのかな~!

         

        父から最後の一言「君の戦略は間違っている」

        僕の一言は「父親との戦いはやっと終えることが出来る」

        18歳に成る2か月前の事だった。

        今思えば 父も17歳の時アメリカに密航しようとした。

        親子でも、与えられた環境を乗り越える事が出来ない子と、狭い日本から飛び出したいと願った青年との違いが有った。

         

        次回は  シベリア鉄道で我が日本へ!

         

        【 道上 雄峰 】

        幼年時代フランス・ボルドーで育つ。

        当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

         

         

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