第45話 「帰国子女」
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8月に日本に帰って来て、まずは学校をどうするかという問題がありました。
愛媛の山猿が大都会の東京に住むのです。
今のように帰国子女枠などというものはありませんでした。
受け入れ態勢どころか外国帰りはかえってハンデとなっていた。
外国帰りはなかなか就職も出来ない時代でした。
まず九段下の高等学校の2年に編入させてくれとお願いに行きました。
しかし試験の結果、中学2年生であれば、と言われて愕然とする。
やっとの思いで日本に帰って来たのに!
いやいや、いくらなんでももう18歳に手が届く男に中学2年とは?
自分では日本語が出来るつもりでいたのだが、全くもって国語が駄目だったのでした。それでも何とか姉の義父に頼み込み、粘った末高校1年の2学期から入れてもらう事になりました。
フランスで生活していた時間の長さが、僕の日本語を忘れさせたと言う事だけでなく、日本の常識的な事にも疑問を感じる少年になっていたために日本語が出来る外人のように映ったのでしょう。
やはり言葉には流行りが有るだけでなく。気持ちが日本で無ければ通じない場合もあります。
入学は9月からでした。
学生服はオーダーメイドが原則。変な学校だと思いましたがその時はその高校しか受け入れ態勢がなかった。ましてやフランス語の優位性が認められるなんて男子校は他にはなく、唯一の学校でした。
学生服が登校日に間に合わなかったので とりあえず姉の義父(夫の父親)の洋服を借りて学校へ行きました。ズボンはボンタン(ハイ・ウエストで股幅が広い)、シャツはアロハのような開襟でベルトはワニの背が入った革ベルト。おまけに先の尖がった茶色い靴。学校では やくざが入って来た、と大騒ぎになりました。
さっそく、生意気な外国帰りをリンチにしようと言う事になっていました。
ところがそれが実行される前に たまたま体育の時間に柔道があり。
44人の生徒が22人対22人に分かれての勝ち抜き戦をやることになりました。
僕はトップバッターでいきなり22人全員に勝ってしまいます。このことは、すぐに学校中に広まったようであいつを怒らすと怖いぞ、という事になってリンチの件は消し飛んでしまったそうです。
しかしそのことで勝手に柔道部部員として名前を乗せられてしまった。
柔道部員と言っても一度も練習に行った事は無く、ただ一度試合に駆りだされた事はありましたが、その時は年齢制限に引っ掛かり全日本は出られませんでした。
とにかく すべてがかみ合わなく、自分では日本語が出来ているつもりでいたのですが、皆に言わせると何を言っているのかよく分からない、と。
国語の時間はまるで漫才!試験になると質問の意味が分かりません。
漢字が読めたとしても試験官が何を求めているのかがさっぱり分かりません。
日本の処世術が全く身に付かない。
とにかく友達が欲しい、友達が必要だ、そのために、明日だれそれと会い何々を話そうと下宿部屋の壁に向かって まるで役者がセリフを覚えるかのごとく反復するわけです。
そうして人の気を引こうとするんだけど、それがかえって嫌われてしまう結果になるのでした。頑張って生きれば生きるほど「あいつは若いなあ~あいつは疲れるな~」と言われていたようです。
日本では目立つ奴は嫌われる!だがヨーロッパでは自己主張をしない人間は「実存」しない。変な外人だったのかもわかりません。
朝のホームルームの時間などは担任の先生から「おい道上、前へ来い。青春と言う字を書いてみろ!」「はい、性春」・・・青いと言う
ニュアンスが分からないのです。
たまちゃんが輿に乗って嫁に行ったなど知る術も無く、腰の玉と表現してしまうやら、まるで漫才の時間でした。
昔サルトルの超現実主義が流行っていて難解と言われていました。 僕も読んでみようと思って日本語の本のページを開いてみたところ、表現が確かに難しく書かれていたような気がします。フランス語の原文はさほどではないのですが。
第一次世界大戦まで日本は、兵法や税法などはドイツを手本にすることが多かった様です。 ドイツ語は言葉一つずつの重みや深さが他の言語と違い、たとえばフランス語では アイデア(イデ)というと考え、閃き・・・あまり大した重みのない言葉ですが、ドイツ語では観念とか信念とか色んな深い意味が あると聞かされた事があります。
第一次大戦でドイツが負けると日本は文化、税法等も含めフランスを手本にするように切り替えて行ったそうです。
それ以降フランスの文化を最も早く、受け入れ広まったのは日本であり、日本の文化を最も早く受け入れたのもフランスでした。 華道、柔道、モネ、マネ ルイ・ヴィトンの柄は日本の着物の柄から来ているようです。 その際フランス語はドイツ語を経由して訳された様です。
昔の仏語辞典は難しい日本語で書かれていて、その日本語を解釈するのが非常に大変でした。当時の僕が森鴎外だの島崎藤村だのを読むときは1ページに何十と言う単語の漢字を辞書で調べなくてはならず、本1冊を読む時にはその本用に新辞書を自分で作るかのようでした。
そんなある日教室で他の生徒のマンガ本を手にしていたら担任に、そういった本を読んだ方が良いと褒められました。当時はマンガを馬鹿にする傾向があり、先生に見られたら 慌てて隠す時代でした。
マンガを読み、その後は新聞のスポーツ欄を読むようになり、しだいに政治欄も読むようになりました。とはいえ、いずれにせよ本を読むのは大嫌いで いまだに本は読みません。こうして皆さんにメルマガを読んで頂くのは大変な光栄と申し訳無さとで恐縮している次第です。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。