「古武士(もののふ) 第2話 小学生時代」
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ひ弱な幼年時代とは打って変わって、道上伯は道上家のDNAを取り戻すかのように鍛え上げられて行った。
父である道上安太郎のアメリカの出稼ぎの間は母リキと二人きりの事が多く、その間は苦労を知らないで育った。
祖父母の面倒も率先して手伝い、母リキに溺愛されて三男伊勢春が生まれてから更に頼られていった。
伯は村では評判の孝行息子であった。
伯が10歳の時、兄亀義が15歳で渡米する。
父安太郎は最初の5年の出稼ぎで得た収入で家を建て、次の5年後には畑を次々に買戻し、最後の5年で得たものは老後にたくわえた。
ただ当時の土地はほとんどが山を開墾して作ったため、土壌は石ころが多く、雨が降るとぬかるんで路肩が崩れてしまう。急勾配の斜面を蛇行するような農作業用の細道。
この細道には崩壊を防ぐため石垣を作って行った。
川辺で岩を割り、その割った岩を苔で滑りやすい川から背中に背負って運んで来る。
そして畑でその岩をハンマーで割って石垣を作る。
このような作業で伯の強靭な足腰が出来上がるとともに肩や背筋が強くなるのは当然の事であろう。
学校から帰って家で勉強机に向かおうものなら、父安太郎から机ごと教科書や本などを二階の窓から捨てられたそうだ。
家から帰ると真っ先に山に登らなければならなかった。
仕方がないので暗記物の宿題などは、学校の行き帰りで紙札に書き、
暗記しながらその都度飲み込んだそうだ。
天秤棒を肩に掛け、荷物無しで登るのでさえ困難な急勾配を走って登り、みかんを積んで走って降りる。
当時の小学校では相撲が正課だったが体育の先生と相撲を取るのは四年生の伯一人だった。
相撲大会に出ても全戦全勝。
地方大会に出た時も小学校五年生にして、六年生ばかりの大会で初出場初優勝してしまう程だった。
中学に入ると(現高等学校)一人だけ際立った動きをする伯の才能を見抜いた柔道教師は勝手に彼の名を柔道部に登録してしまう。
さらに伯の意に反して英語教師がボート部に名前を登録してしまった。
伯13歳、まだ柔道を本格的に始めて半年のころであったが早くも昇段審査を受ける。
当時柔道の昇段試験は筆記、型、試合と有ったが、試合は今の様なポイント制ではなく、二本を取らなければいけなかった。
その時の出場者(殆どが20~30歳)8人全員を抜き(全員に勝ち)、筆記も型もほぼ満点で申し分無かったが、なにぶん年齢的に前例の無い事でもあり、
年が若いと言う事で結局初段は貰えなかった。
当時地方では初段をもらえる事は大変名誉な時代だった。
翌々年同じくすべてに完璧を期した時はさすがに反対する者も居なく15歳で初段を取った。
しかも30年以上に及び、この少年の記録は破られる事が無かった。
ボートに柔道をこなし、急激に体力をつけていってもう商業学校で彼にかなう者はいなかった。
商業高校三年で二段をとり、すでに柔道教師も歯が立たない怪物に成っていた。
道上伯が強かったのは 父安太郎の生き方によることが多かったと思われる。
「不言実行」贅沢には無縁だった父親だったが、学校・神社などに寄付塔には必ず道上安太郎の文字が刻まれていた。
伯は小学校四年の時先生に「道上安太郎は 君のお父さんかね?」と聞かれたのでそうですと答えたところ「偉い人だなあ」と言われたそうだ。
校舎の石碑に刻まれている道上安太郎百円の寄付を見ての事だった。
いつの世も 立派な父親を持つと 息子は大変だ。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。