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        「古武士(もののふ) 第6話 武専」 
        ________________________________________
        
        道上伯の人格、生き方を表現した場合、避けて通れないのが武専の存在です。
        その背景を今回書かせて下さい。─史実を。 
        
        明治維新後、廃刀令が発せられ、武士階級の優越性が失われて一時は武術そのものの価値も失われたかに思えた。
        しかし明治10年西南の役で苦戦する政府軍を武術家が助けた事によって、武術の価値が見直されるようになった。
        
        さらに明治27年(1894年)甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに日清戦争が起こると再び国民の間に武道への関心が高まって行った。 
        
        そこで武道を奨励し武徳を涵養する事を目的に設立されたのが
        大日本武徳会だった。
        設立の賛同者には伊藤博文(内閣総理大臣)、山縣有朋(前枢密院議長第一軍・軍司令官)をはじめ13名が名を連ねた。
        時の政府の全面支援を受け、総裁には小松宮彰仁親王、会長には
        渡辺千秋京都府知事、副会長には壬生基修平安神宮宮司が就任した。大日本武徳会は講道館を含む各流派(116の流派)を統括し、日本の武士道精神反映させるため、各都道府県に武徳殿を設けた。
        
        その大日本武徳会によって大日本武道専門学校は設立され、
        明治44年には柔道剣道を正課として開校した。
        
        武専は京都平安神宮の中にあった。
        全国から武道の俊英が集う武専の学生は礼儀正しく、
        弱い者に優しく、まさに正義の味方として京都市民から尊敬された。 
        
        その厳しい教育は校外の生活にも及び、やはり弱者に思いやりが有り、その上動作がきびきびしていて皆のあこがれの的であった。
        見ていて気持ちがいいと京都市民からは評判が高く、しかも武道に関してはいずれ劣らずの一騎当千のつわものばかり。
        武専の学生が歩いてくると、地回り(ならず者)も道をあけたと言う。
        
        とにかく武専は厳しい学校であった。
        実技における稽古の厳しさはもちろんのこと、試験に関しては
        100点満点の平均60点以上でなければ落第(落第は一度だけ認められていた)で追試は皆無。
        一科目でも3分の1以上の授業の欠席で、全試験の受験資格なし。2回続けての落第は即、退学を意味する。
        
        伯の時は定員20名のところ受験者は560名。新学期での
        スタートは上級から落第してきた者(4名)を含む24名だった。それが卒業時には11名(卒業式に一人死亡も含む)となり、残りは途中で死者、脱走、退学、落第となった者が十数名だったという。  
        
        卒業と同時に旧制中学の体育、国語、古文、漢文の教員免許が与えられ、後多くの者が天皇から教師号を授与される。
        武科のカリキュラムには武道と武道史に分かれ その内武道では
        理論、型、実習が4年間の必修となる。
        武道史は各流派、武道全般の変遷発達を学び週16時間の授業。
        文科では修身、教育、国語、古文、漢文、歴史、生理衛生、心理、
        随意科目として英語があり、伯は週40時間の講義を受けていた。 
        
        
        
        夏冬春の休みを除けば週56時間の授業(土日も授業有)となる。武専でのあまりにもハードな稽古の為、体をこわすもの、不幸にも命を落とすもの、脱落するものが多かった。
        専門家養成学校だった為、武道もさる事ながら教師としての品格、生き方まで重視された。
        正課ではないが整体術、整復術・・・今は無い多くの学びが有った。 
        
        祝日、夏休み、冬休みは柔剣道の大会が開かれ遠征が行われる事が多かった。
        何処の遠征でも負け知らず。
        アマチュアとプロの戦いだった。
        伯も町道場であった講道館に何度か試合を申し込んだが、
        いつも断られた。 
        
        古式の形(かた)、投げの形、殆どの柔道の形は武専の先生の考案によるものだ。
        ある日柔道の歴史上もっともポピュラーな「何某十段(空気投げで有名)」と武専教師、田畑昇太郎との天覧試合があった。
        田畑はその(空気投げで有名な)相手が立ったら投げ、また立ったら投げ、で、とうとう誰も何某十段が立っている姿を見ることはできなかったそうだ。
        宣伝の講道館。どういう訳か、戦後は講道館のみが残った。
        
        戦後アメリカが公職追放と称し、武徳会を潰したのは当然であり、もっともアメリカが恐れた日本武士道の真髄である。 
        
        最近、「道上さん柔道は如何なっているの?おかしいいいんじゃないの?」皆さんのイメージとは裏腹に、精神共に本当の柔道を教えてくれる先生がいないのが現在です。 
        
        
        しかし武専と言うイメージから、硬直し右傾化した学校に思われがちだが、実際は他の学校に比べ、はるかにリベラルで自由な空気にあふれていた。
        後に伯が最も科学的かつ理論的に教える事が出来たのは武専によるところが大きい。
        長幼の序にうるさい武専では、1年の時には許されなかったが、
        2年からはインパネス(和服用コート)を羽織ることが認められた。道上伯が大変お洒落だったことも窺える。 
        
        この写真はTVドラマ「仁」の原作者、村上もとかさんが書かれた本「龍(ロン)」からの抜粋である。このコミックはかなり面白く、本もマンガも全く読まない僕が一挙に全17巻まで読んでしまった。年齢など関係なく読めるコミック本です。
        ぜひ読んでいただきたい。お薦めです。 
        
        
        
        
        
        

        来週は武専の鬼才伯。

         【 道上 雄峰 】
        幼年時代フランス・ボルドーで育つ。 
        当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。
        

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