「古武士(もののふ) 番外編 」 2/6
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「古武士(もののふ)番外編 講道館柔道への爆弾宣言」②
【背の高い建築労働者】
オランダ柔道協会に私が関係をもったのは、一九五五年(在欧二年足らず)の陽春のころのある日、突然、フランス柔道協会会長ボネモリ氏(現国際柔道連盟事務総長)から、「本日の午後オランダ・チームを指導してもらいたい」との申し入れがあった時にはじまる。
しかし、普通の指導だけでもいささかヘバリ気味だった私は、
そんな押しつけがましい申し入れにははじめから気乗り薄だった。
そこで簡単に不承知を伝えたのだが、どう断ってもオランダ選手団が、「一度だけでいいから」といって引きさがらないという。
ボネモリ氏も困ったが、私は一層閉口した。それで、やむなくしぶしぶ引受けて約二時間あまり指導することにした。
縁は異なものというが、このたったの二時間がずっと今日まで、
私とオランダ柔道協会とを結びつけることになろうとは、想像だにしないことであった。
選手の中に、背の高く顔色の悪い約八十五キロあまりの建築労働者がいるのに、私が気がついたのは、指導をはじめてから間もなくである。彼は技といえば内股一本槍で、まださほど威力があるというほどではなかったが、指導如何では案外伸びそうな、そして性質が実にすなおな好青年だった。
名をヘーシンク(当時二十歳)といった。
図体が大きいくせに、劣等感の持主というか、妙にはにかみ屋で、日本人の私にたいしては特に遠慮がちであった。
そこで私の方から出来るだけとりつき易いようにしむけるのだが、私の顔をみただけでも、緊張のあまり顔をこわばらせるのだから、いささか扱いかねた。
そして、オランダ柔道教師仲間の間でかわされている”あいつは
力ばかりで柔道ではない、剛道だ”という軽蔑の言葉だけが、
私の耳に入ってくる。私は考えた。まずオランダの柔道人口をふやさねばならない。それには強い、立派な柔道家をつくることが肝要だろう。私はこの候補にヘーシンクを名ざしたのである。
そこで、彼に酷評を下す教師仲間に「一丸となって優秀なる選手を育てよう」と説きに説いたのだが、これが効果あったのか、やがて仲間も私に協力するようになってきた。
それから一年たった。
一九五六年に第一回 世界選手権大会(於東京)が開かれた。
その大会に、期待をもって、というよりも、雰囲気に浸ってこい、といって彼を送り出したが、予想したとおり完敗してしまった。
さらに二年たった。
一九五八年の第二回大 会(於東京)には、思う存分畳の上で暴れてこい。しかし、大会前の練習では特に気をつけて未完成な技術を研究しつくされないように、と注意をあたえておいたのであるが、やはり未熟だったのであろう、大会前すでに吉松義彦君や山舗公義君に研究されて、彼は惜敗して帰国してきた。
しかし、ぜんぜん私はがっかりしなかった。このことは彼にとっても、オランダ柔道界にとっても大へんな勉強になったのは事実で、以来彼はただ黙々として私の指導のもとに精進していった。
彼が体力を作るために何をしたか?
参考までに二、三挙げてみれば、自転車のペダルを踏んで脚力をつけ(彼も自動車をもってはいるが)、フット・ボールをすることによって反射運動ならびに足関節を鍛え、百二十五キロのバーベルをヒューッと瞬時にもちあげる練習、またこれを左右に勢いよくふって相手の崩しの練習、等々。
さらに、鉄棒にアゴをかけて両手を放してぶらさがり、首の筋肉の鍛錬、レスリング、こう数えれば実のところキリがないが、どれにせよ、これを始めるに当っては、必ず私に承諾を求めてから実行するというすなおさであった。彼は日曜となるとほとんど友人や弟子たちと山に登り、切り倒された大木をころがしたり、ボールを蹴り合ったりして新鮮な空気を吸い、体力作りと雑念を遠ざけ、再び
俗界にもどるということをくり返してきた。
彼に感心することは、枚挙にいとまがないが、アルコールを慎み、煙草を口にしないということもその一つ。オランダはいわゆる煙草の本場で、安価でしかも実にうまいのが多いが、そのような社会環境の中で煙草を口にしないということは、強い意志をもつ彼にして初めて出来ることであった。
第二回大会より、さらに精進と努力と節制の二年がたった。
六一年一月十六日、単身日本へ渡ったヘーシンクは約二ヶ月の後
オランダへ帰ってきた。彼を迎えた私は、一瞬、思わずおのれの眼を疑った。これがあの弱気な、劣等感のかたまりみたいだった青年なのか、という驚きだった。悠揚せまらざる態度、落着いた挙措、自信あふれる十分な貫禄、それらは選手権者としてのそれではないか。
彼は日本の柔道界をたしかにその眼で見てきた。優秀選手の技術を研究しおのれの身体で感じ、自分のものとし、そして私のアドバイスどおり彼の真の強さを秘し、得意技をみせずに帰ってきた。やさしい微笑を口もとに 漂わせながら……。
私は、この時、よし勝てるぞ、の自信をしっかりと抱いたことであった。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。