「古武士(もののふ) 第9話 武専卒業」
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道上伯は決して贅沢な家庭の育ちでは無かったが、父 安太郎の学問に対する見識と家族愛によって学費や生活費は有り余るほど十分な仕送りがなされた。
そういった意味においては他の学生に比べ、伯は比較的恵まれていた。
入学時には五歳離れたアメリカ在住の兄から祝いとして150ドルが送られて来た。
昭和九年の事だから当時のレートで1ドル3.45円と計算しても150ドルと言ったら517.5円になる。
そのほかにも節目節目に送金してくれた。
武専の授業料が年間55円だったから4年間の授業料を払っても有り余る金額だ。
しかし毎日勉学と柔道の練習に明け暮れていた伯にとっては宝の持ち腐れであり、 もともとお金に無頓着なものだからせいぜい上質の着物を誂(あつら)え、 たまに、うまいものをたらふく食べて栄養を摂るぐらいだった。
同じ下宿の武専生が伯の着物が上等なのに目を付け、勝手に質に入れて流してしまっても、 笑い飛ばしていたそうだ。
その50年後のある日、愚息の雄峰は京都の祇園を父伯と歩いていた。
「お父さん、あの万茶屋( 一力茶屋 )知ってますか?」
「ああ知っている」
「お父さんあそこは有名ですよ」
「昔から有名だ」
「高くて、その昔大石内蔵助が通っていたところですよ」
「ああ! 武専の生徒で総長の字を上手に真似る者が居て、『この子達を宜しく頼む』という 手紙を書いて送っておく。
それでお父さんの着物を質に入れたお金でよく飲みに行ったもんだ」
雄峰は愕然とする。
京都を多少は知っているつもりでいたが上には上がいた。
祇園の一力茶屋と言えば一流の芸妓さんが呼べて5万や10万では遊べない。
勿論一見さんでは入れてももらえない。
話を戻そう。
二年生の一学期に伯は四段に昇段した。
それと同時に主将に推された。
武専では二年生からはキャプテン制度が設けられて順位が実力でどんどん変わる。
そんな中でも二年生の主将は異例中の異例であった。
ところが順風満帆に見えた学生生活の中で、伯にとって生涯一番の危機が訪れる。
稽古中に仲間の一人が伯の足の上に落ち、伯は右膝の半月板の靭帯を切断してしまったのだ。
それでも練習を続け、稽古が終わってから骨接ぎに担ぎ込まれたが、引っ張っても木槌で叩いても、 伯の膝は伸びなくなっていた。
別の医者に担ぎ込まれたが、そこでも数人の手で身体と足を牽引しても膝は伸びず、 翌日伯の膝は丸太の様に腫れ上がった。
今度は京都大学の医学部に行って治療を受けた。
医者は注射器で水を抜いて「患部をギプスで固定して、柔道の稽古は六か月休め」と言った。
ギプスをはめては練習が出来ない。
ギプスを断って、3日に一度水を抜き、それを11回続けた。
患部をチューブで固定し痛みに耐えた。
何としても主将の責任を果たしたいと考えての事だった。
それでも一か月半は練習を休まざるを得なかった。
以来伯の右膝は、九十度以上曲がらなくなった。
この時を除いて伯は順位を下げた事は無く、武専在学中を主将で通した。
三年生になるとあらゆる面で快適になる。
長幼の序の厳しい武専では、一年生と二年生は四六時中先輩の目を意識して いなければならない。
掃除や先輩の稽古後の道着干しなどは率先してやらなければならないため、普段の気遣いは大変なものがあった。
三年生になって一切の雑事から解放された伯は一層稽古に励むが、相変わらず膝は自由にならなかった。
そんなある日、日本の四天王と言われた栗原民雄武専教授が職員室へ行く道中ニコニコして歩いておられた。
周りの先生が栗原先生よほど嬉しい事がおありですか、と尋ねられた時に 「今日はうれしくて何とも顔がほころびます。
道上がですね、私の事を押さえ込み、一本取りましたよ。
ここまで来たかと。
人生最良の日ですな!」 とおっしゃった。
他の先生からこの話を聞かされた伯は、この先生の恩に報いなければと思った。
そして形で出来る事はもちろん、その思いを生涯持ち続けた。
四年の一学期に伯は五段に昇段した。
その頃は既に武専の先生達も伯には敵わなくなっていた。
日本中、伯に敵うものはいなくなった。
伯が生涯一度も試合で敗北が無かったのは単なる負けず嫌いだからではない。
武専の先生方に対する尊敬と責任感である。
日本の誇りを地に落としてはならないの一念であった。
東京遠征の時、武専チームは講道館にも対戦を申し出たが、講道館はぶざまな結果を避け対戦を断った。 その時の面会で嘉納治五郎は「これからは君たち若者が率先して海外へ赴き、柔道を世界に普及してほしい」と語った。
伯は内心深く頷いた。
卒業すればいよいよ念願の海外へ、アメリカの兄のもとへ。
胸の高まりを抑えきれない伯に卒業の季節が迫って来た。
次回は高知高校
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。