「古武士(もののふ) 第21話 日本柔道の終焉 」
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昭和22年(1947年)大日本武徳会の解散、東亜同文書院の
閉鎖。
道上35歳。一度柔道から離れて今後の自分の身の振り方を考えてみようと思った。
折から、終戦後の日本は空前の食糧難であった。道上は魚を捕ろうと思いたった。
八幡浜は豊後水道に面しており、近所には好漁場が沢山あった。
上海から引き揚げてくる時わしづかみにしてポケットに入れて来た米ドルは ほんの小遣い程度だと思っていたが、日本円に替えると大金になった。
その金をもとに小さなトロール船を一隻持っている会社を買い取った。
道上の祖父は小型底引き網のトロール船よりも大きな漁船の(地元ではオンドといっていた)網元だったから、 道上はこの仕事にまったく覚えがないわけでもなかった。
一隻の小型底引き網漁船は大活躍した。
戦時中軍船が行き交って満足に漁業が出来なかったせいか、漁業資源が豊富だった。
トロール船は大漁に次ぐ大漁だったが、捕った魚はたちまちのうちに売れた。
会社はトロール船を増やし、七隻にまでなった。
二隻ずつ三組で漁を行い、もう一隻は捕った魚の運搬用に充てた。 道上の懐に金がジャブジャブと入って来た。
のち愚息に「お金が飛んでくるようだった」と言っていた。
八幡浜は山からそのまま斜面が海に落ちるような地形、山はみかん山 父安太郎のみかんも飛ぶように売れた。
敗戦後の食糧難は、食料供給基地としての八幡浜を、一躍希望の里に変貌させたのである。
過疎の町は立ちまち好景気に沸いた。
道上はこの頃八幡浜で八西柔道会を立ち上げた。
しかし道上の心は晴れない。
一方では、武徳会は解散したものの116ある町道場の中の一民間道場である講道館だけが潰されなかった。
現在柔道を作ったのは講道館と言われているが、起倒流柔術では
柔道と言う名を昔から使っていた。
「投げの形」「固めの形」「勝負の形」(現在の極めの形)など柔道の形は武徳会が定めたものである。
「五の形」「古式の形」は天神真揚流が極意として伝書などには一切記述しなかった。
ここまで書けば柔道に少しでも携わったものには色んな事が見えてくるだろう。
嘉納治五郎は、昭和15年の第十二回オリンピックを日本へ誘致するほどの大物で国際秘密結社の一員でもあった。
ここで日本柔道も終わった。
次回は「渡仏」
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。