「古武士(もののふ)第22話 渡仏」
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昭和28年6月の事だった。
武専の恩師栗原先生から道上に連絡があった。
「今フランス柔道連盟会長のポール・ボネモリが東京に来ている。 真の柔道指導者を求めているので君を紹介したい。
ボネモリに会ってみてはくれないか *ボネモリ氏はジョイヨ・キューリの所長 すなわちフランス・エスタブリッシュメントの 最高峰であり、 のち、世界全柔連の会長になる。
ボネモリはフランス柔道界がいかに隆盛かを説明し、間もなくフランスは日本に次ぐ世界第2位の柔道国になると語った。
その為には優秀な真の柔道指導者が必要だと力説するのだった。 しかも戦前の正しい柔道家をと強く要望する。
フランスではその頃、実質的な指導者は川石酒造之助だった。
川石は昭和10年(1935年)にパリの柔道愛好家の要請でフランスに渡り、 一時期戦争の為フランスを離れたが昭和23年に 再びフランスに戻り 連盟の技術部長を務め個人的には粟津正蔵を助手にしていた。
既にフランスには三十年前から、柔道に覚えのある者たちが入れ代わり立ち代わり 指導に当たっていたがフランス人柔道家たちの 間では物足りなさを感じていた。
このころ柔道人気はフランスだけでは無く昭和26年(1951年)には イギリス、イタリア、西ドイツ、スイス、オーストリア、オランダ、ベルギーそしてフランスの 計8か国で第一回ヨーロッパ柔道選手権大会が開かれるほどの人気になっていた。
そんな中でビジネス的には中々のアイデアマンの川石とそのアシスタント粟津などの指導では、このままでは一過性のもので終わってしまう、日本の伝統ある戦前の本当の柔道を伝えてほしい、 と ボネモリは懇願した。
道上は既にアメリカの軍港サンデイエゴで柔道を教えてくれないかとの要請があり 水産会社も軌道に乗っており、国内の柔道の 混迷ぶりに見切りをつけアメリカに行こうと考えていたところだった。
やはり幼年時代の夢は捨てられなかった。
フランス柔道連盟の正式条件は、往復の飛行機代、宿舎の提供のみで謝礼無し。
恩師栗原先生からの、世界に本当の柔道を伝えられるのは君しかいない、のお願いは断れない。
三歩下がって師の影を踏まず。
道上は一年であれば貯えも少しあるからと受けた。
道上四十歳の決断だった。
たった一度の敗戦で大和魂が消えるものではない。
日本人の心を思い知らせてやろう。
十日後にはチケットが届いた。
長女十二歳、次女八歳
昭和28年(1953年)7月の事だった。
ここから道上の苦悩の五十年が始まる。
次回は「フランスでの指導」
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。