「古武士(もののふ)第24話 十人掛け」
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渡仏から三か月が過ぎようとしていた1953年12月9日、パリのピエール・クーベルタン記念体育館で、 「道上来仏歓迎柔道大会」が開かれた。
この会場で道上は形と技の実演を行った後、のちのちまで語り継がれる十人掛けを行っている。
十人掛けとは、選ばれた有段者と一人ずつ、十人連続で戦うものである 途中で敗れたり引き分けたりすると、そこでお終いになる。相手は現時点でのフランス最強の十人だった。
あらかじめ「果たせなければ即帰国」と道上は川石から言い渡されていた。
過去、そして今でも多くの日本人柔道家が挑戦し、誰も果たせなかった十人掛けだった。
その二年前に日本選手権覇者の醍醐敏郎も二日にわたって十人掛けを行っているが彼も果たせなかったひとりである。
中には殺される柔道家もいた。
投げ技で首から落とせば受け身が取れず死ぬ場合があるが 日本人柔道家は何人も殺されている。
しかし道上は超満員の観客の「ジャップ殺せ」の大合唱の中
5分40秒でこの十人を倒して見せたのである。
インドシナ戦争で 親兄弟を日本兵に殺された人達も多くいる中での戦いであった。
しかもフランスでの出来事、過去強かったでは通用しない。
今強くなければ。
十人目が会場の畳に鳴り響く最後の一本、会場では全観客のスタンディング・オベーション、そして歓声と拍手が鳴りやまなかった。 道上の存在は会場の4300人を威圧していた。
日本文化の奥深さを感じさせていた。
中には日本は何故戦争に負けたのだろうと単純な見解を発したものもいた。
道上四十歳になったばかりの事である。
のちにボネモリと川石はそれぞれ、道上を推薦した栗原先生に感謝の手紙を書いたが、 そこではともに、道上はフランス最強選手十人を5分40秒で抜き去り、こともなげに静かに畳の上に立っていた、 と報告されている。
その後も道上は求められると どの国でも百数十回に及んで十人掛けを行った。
その中には十人各自に違う十の技で十本、しかも4分30秒という短時間でのこともあった。
川石は、「もし投げられなかったら柔道生命が危うくなるからやめてくれ」とお願いしたが、 道上は聞く耳を持たなかった。
もとより道上は、「負ければ、その場で日本へ帰る」と考えていた。
短い滞在予定だったが、いきなり行って日本人柔道家だからといって素直に従うほど、 フランス人は単純ではない事を知っていたのである。
道上は「フランス人は強いものにしか従わない。最強のものしか尊敬しない。
自分に役立つもの、すぐ利用できるものしか尊重しない」 と感じ取っていた。
指導者として尊敬を勝ち得るには、勝ち続け、自ら垂範することしかなかった。
そして道上は勝ち続けた。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。