「古武士(もののふ) 第27話 父 安太郎の死」
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フランスの柔道界は大きく二つの協会に分かれて行った。
FFJDA(フランス柔道連盟) とCollege National Des Ceintures Noires( 有段者会)、この分裂は1974年まで続いた。
ジャザラン会長が仕切る有段者会の、昔の柔道を重んじると言う方便に乗せられ、道上は向こう3年間無償で最高技術顧問として手伝う事になった。
しかしその後も道上に報酬が支払われる事は無かった。
道上が有段者会についたことに連盟会長(FFJDA)ボネモリは激怒した。
世界有数の秘密結社の33段階、すなわちトップのボネモリは有りとあらゆる手を使って、 道上を追い落としにかかった。
時代はアルジェリア独立戦争が続く真っ只中。
「解放戦線狩り」に便乗して 「道上は共産党員だから、国外追放するための証拠をつかめ」 と内務省からボルドーの警察に命令が来た。
日本のフランス大使館を通じて八幡浜まで調査の手が伸びていた。
ヨーロッパでは道上に四六時中尾行が付いていた。
ある日ボネモリは道上にその某秘密結社への入会を勧めた。
道上のボネモリに対しての返事は
「君は何段階なんだね」 、ボネモリ「先生33段階です」
「では34段階であれば受けるとしよう」 「先生33段階しかないのですが」
「ではこの話は無かったことにしてください」
ドゴール大統領からもフランスの憲兵隊員たちへの指導要請があった。 だがこれも断った。
道上は頑なに筋を通すところがあった。 武専に、日本国に。
フランスへ渡った当初78キロあった体重が66キロまで減って
もっともつらい時期でもあった。
そんなやせ我慢が続く中、どうしてもフランスに残っていてほしいと思う弟子たちが、 特にボルドー地方の検察本部長その他の有力者たちが、道上を弁護して回った。
「先生にはもっといてもらいたい。本当の柔道を教えてもらいたい」
「先生を中心とした道場を作るから残って下さい」
道上は迷った。運営の責任者になるとフランス滞在が長期化してしまう。
道上にはいずれアメリカへという夢があった。
そんなある日、リモージュ(フランスの中央に位置する)の講習会に講師で行っていた時である。
突然電話が掛かって来て
「道場の場所が見つかりましたので直ぐにボルドーに来てください」
行ってみるとボルドーの中心に位置するRue Poquelin Moriere だった。
現在の道上道場がある場所である。
それを見て道上の腹は決まった。
道場があるならどこで教えても一緒だ・・・。
当時フランスの法律では、日本人が道場のオーナーになる事は出来ない。
道場を「柔道クラブ・ボルドレー」と名付け、フランス人の弟子たちに 会長、理事長になってもらった。
実際に会員の募集をしてみると511名もの申し込みがあった。
非会員も合わせると千名を超える申し込みであった。
正規の会員登録は 政府公認の組織へライセンスの登録をしなければいけない。
けがの保障問題などを含むのである。
しかし道上の生活は爪に火をともす暮らしだった。
道場の改造費、保証金とお金がかかり、相変わらず各地からの要請も絶えず、 最高技術顧問をしている国々へ出かけなければいけなかった。
そこでアシスタントを三人用意した。
「一廉(ひとかど)の人物」にこだわった道上。
一廉の人物になるまでは、故郷の土は踏むまい、家族にも会うまい。
渡仏して三年、1956年4月。 相変わらず忙しい日々を送っていた道上に、 癌が胃から肝臓にへ転移し重い病の床についていた父・安太郎が危篤に陥ったとの知らせが届いた。
手紙が届いたのはトゥールーズを皮切りに、ボルドー、ビアリッツと、三つの大会が相次いで開かれる直前である。
三つの大会ともに、道上の十人掛けが行われる予定になっていた。 そして誰が無敗の道上の十人抜きを阻止するかが、どの土地でも最大の話題になっていた。
道上がこの地で一廉の柔道指導者として生きて行こうとすれば、
たとえ父が危篤であっても、これらの挑戦を受けないわけにはいかなかった。
道上66キロ、自分への挑戦。その正念場を迎えていた。
病床にあった安太郎は、「伯は帰らないか」「伯は帰らないか」と何度も周囲のものに聞いた。
最後の頃には「伯には会えないなあ」とつぶやいた。
道上は三つの大会で無事十人掛けを戦い抜いたが、最後のビアリッツ(西南仏)での十人掛けの最中、 何人目だったか(六人目?)、相手の手が偶然に頭にあたった。
そのとき、何の脈絡もなく、「あっ、親父が死んだ」と思った。
道上は激しく相手を畳に投げつけた。
この日、4月19日。まさに安太郎が息を引き取ったのだった。
道上は、フランスでの事情をつぶさに書いた長い手紙を、八幡浜に送った。
そしてその手紙は、安太郎の納骨の為に親戚一同が集まっているところに届いた。
安太郎のお骨の前で手紙が読み上げられ、 みな涙した。
次回は「アントン・ヘーシンク」
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。