「古武士(もののふ)
第30話 頭角を現し始めたヘーシンク 」
________________________________________
ヘーシンクは道上指導のもと、ヨーロッパでも頭角を現し始めた。
道上は「雰囲気に浸ってこい」と日本での第一回世界選手権にヘーシンクを送り込んだ昭和30年(1956年)、 道上の指導を受け始めてから丸一年経ち、ヘーシンクは三段になっていた。
準決勝で吉松吉彦七段にわずか47秒で投げ飛ばされた。
その二年後、つまり道上の指導を受けるようになってから三年経て開かれた第二回世界選手権大会にも 送り込まれた。
ヘーシンク五段、この時オランダ柔道連盟は、ヘーシンクはじめ
選手たちの日本への旅費を用意できず、やむなく道上は柔道の模範演技、乱取りなどの講習会を一般に公開して旅費を捻出することにした。
この公開には、「世界一強い男」道上の模範演技とあって多くの一般民衆が見学に詰めかけた。
勿論そこにはオランダの強豪に対する10人掛けもあり、あまりの様式美と技の切れの良さで素人でも感動してしまう程であった。
有料で公開されたデモンストレーションは大成功を納め、そこで得た収益でヘーシンクたちは東京へ向かったのである。
道上は全員の旅費滞在費を用意するなりヘーシンクの日本での練習先の交渉を終え、 ヘーシンクには「大会では思う存分畳の上で暴れてこい」と言って送り出した。
そしてこうつけ加えた。
「大会前の練習ではとくに気をつけて、相手にこちらの技を研究されないようにしろ」と釘をさした。
しかし道上が心配したように準々決勝で内股を返されて敗れた。
日本の高段者に研究されていたのである。
醍醐敏郎は、 「二年後に再び開かれた第二回大会では、見違えるほどの進歩をみせており、山舗(やましき)選手には積極的に攻めて返し技で敗れはしたが、 日本柔道界に与えた彼の脅威感は、かなり大きいものとなっていた」
(「日本柔道への処方箋」文藝春秋昭和37年2月号)。
だがこの試合を含め、第二回世界選手権は、初めて判定に疑惑が抱かれることになった。 ヘーシンク戦で山舗は内股を連発された後「体落とし」でバッタリと手をついている。
しかし審判はこれを技の効果とは判断せず、そのまま試合が続けられた。
その後ヘーシンクの「内股」を返した山舗の技を、審判は「一本」と宣して試合が終わったのである。
だが多くの専門家は、これはせいぜい「技あり」程度だろうと言う。 もし山舗の「内股返し」が「技あり」だとすると、ヘーシンクの「体落とし」も「技あり」にしていいはずだと。
第一回世界大会では日本人同士が決勝戦を戦った事でも分かるように、外国人選手との間には歴然たる実力差が有り、 疑惑の判定など起こりようもなかった。
しかし第二回大会ではヘーシンク五段、同じく道上の弟子たち、フランスのパリゼ四段、そしてクルティーヌも四段になっており、 彼我の実力は急速に接近しつつあった。
審判は全員、日本人の八、九段の高段者だったが、シドニー・オリンピックとは逆に、 日本人選手に甘すぎるのではないか、との声がひそかに囁かれたのである。
パリゼは前述の山舗と三位決定戦で対戦した。
パリゼは右の「一本背負い」を武器に、十分間の試合時間いっぱい攻め続けた。
これに対して山舗はまったく精彩を欠いた試合ぶりだった。
だが日本審判は、終始押され続けた山舗に、「優勢勝」を与えたのだ。
このように 外国選手と日本人選手の実力差が小さくなり、日本選手の技には「一本」に足りないのに待ってましたとばかり 「一本」と言い、「技あり」を連発する日本人審判に対して、ヨーロッパ柔道連盟を中心に、露骨な不満の声が噴出した。
国際試合では、もっと明確な判定基準が必要だという声は、外国ばかりか日本国内からも起こったのである。
もともと柔道は体重差を認めず、「投げ技」「固め技」による「一本」という明確な技の効果によって、勝敗を決めるものであった。 実力を十分発揮させるために、一回では勝負はつけず、必ず二本勝負とされた。
二本先に取ったほうが勝ち、で剣道にはこれが残っている。
試合時間いっぱい、明確な技がかからなかった場合(一本取らなければ)、全部引き分けだった。
審判が紅白の旗を持つようになったのは戦後からである。
この時から「優勢勝」が生まれ、一道場独占による柔道の衰退と本来の武道的色彩が失われて行くことになったのである。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。