「古武士(もののふ)第31話 道上の訴え」
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第三回世界大会は昭和36年(1961年)パリで行われた。
この大会に備え道上はヘーシンクを日本に2か月間送り込んだ。
警視庁武道館(当時水道橋に在った)日本の第一線級の柔道家と
稽古に励み自信を深めさせる目的であった。
そして旧知の仲の天理教の中山正善真柱(教祖しんばしら)に
「出来ればヘーシンクを私のところによこしてくれないか」と頼まれた。
中山正善は武専の先輩、そして柔道部監督が武専の四期後輩松本安市。
中山先輩の申し出を快諾した。(当時の大学柔道は東の明治、西の天理大だった)。
道上の「日本の柔道に慣れてこい、そのかわりこちらの手の内は見せないで日本選手の研究は怠らず」 道上の綿密な練習計画に沿って練習場所、内容が決められたものだった。
最大のライバルに手の内を見せない事はもちろん、 相手のヘーシンク対策を逆手にとる技とタイミングを身体に叩き込むことを最大の目的にしていた。
今回ヘーシンクはこの注意をよく守り、そして大いに自信をつけた。
道上は技術を生かすには精神力と体力が欠かせない。
体力は単に体重の重さや力の強さでは無く、 筋力の強靭さ
弾力、スピードを生み出す反射能力などで、その体力をいかに技術面で生かすかが課題だった。
つまり技術を百パーセント生かすためには、どこの筋肉の強い働きが必要か絶えず研究し続けたのである。
単身日本へわたって二か月後、オランダに帰ってきたヘーシンクをみて、道上は一瞬、思わず自分の目を疑った。
「これがあの弱気な、劣等感のかたまりみたいだった青年なのかという驚きだった。
悠揚迫らざる態度、落ち着いた挙措、 自信あふれる十分な貫禄、それはすでにして選手権者のものとしてのそれではないか。
私は、この時、よし勝てるぞ、との自信をしっかり抱いた」 と
道上はこの時の様子を述懐している。
パリで開かれる第三回世界選手権大会まであと8カ月だった。
この年(1961)はヘーシンクの成長の他に、道上にとっても
充実した年であった。
ボルドーの道場運営は順調だったし、何よりも渡仏以来初めて八年ぶりに日本の土を踏んだ。
西インド諸島マルテイニックでの一か月に及ぶ講習を終えてロサンゼルスに寄り、兄と会ったあとのことである。
こうして八年ぶりに家族や旧友とのひと時を楽しんだ道上だったが、心は晴れなかった。
国際化とともに、ヨーロッパ柔道は審判規定、段位認定、体重制などあらゆる面で武道からスポーツへ変質しつつあるのに、「本家」を自認する講道館はそのことの意味に何も気付いていない。
トレーニング法、昇段規定等どれをとってもこのままでは本格柔道は「本家」日本から消えてなくなるだろうし、 残るとすれば
ヘーシンクらのヨーロッパかもしれない。
スポーツ柔道になったらなったで、日本はヨーロッパ勢の決めたルールに黙って従っていくしかなくなるだろう。
ヨーロッパの急激な変化に気付かず、安易に段位を発行し続けるだけの講道館=全柔連の、一日も早い改革が必要のはずだった。
実はこの帰国を機会に、道上は多くの柔道関係者に会い、真の強さを反映するような段位の与え方やスポーツ柔道から本格柔道へ改革するため 審判規定等の改訂などについて、熱心に訴えている。
関係者の多くは講道館館長・嘉納履正に面会することをすすめた。
第三回世界選手権大会に先立って七か月前の昭和36年5月道上は嘉納履正に面会を求めていたが、三回目の申し込みでようやく面会できることとなった。
次回は「嘉納履正 との面会」
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。