「古武士(もののふ)第36話 オリンピック決勝
日本柔道敗れる」
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いつの時代も多くの人達は衝撃を受ける。現実を理解していないからだ。
1964年東京オリンピックで注目の柔道の決勝戦が行われもっとも大きな衝撃として日本人の胸に残った。
大会当日、道上は控室で一人ひっそりと試合が終わるのを待っていた。
そこへ、コーニング(オランダチーム団長)が来て、「先生是非決勝戦を見て下さい。
ヘーシンクたってのお願いです」と懇願され、結局パリの世界大会のように道上は決勝戦を会場で観戦することとなった。
対戦は神永対ヘーシンク。
神永が得意の体落としを仕掛ける機会をうかがうように右へ、右へとまわってチャンスを作ろうとする動きから始まった。
ヘーシンクは相手の左足をねらった支え釣り込み腰から、寝技に持ち込むのが得意だからだ。
どちらも得意技を仕掛けるタイミングがつかめないまま五分が過ぎた時、それまで右へまわリ続けていた神永が、ヘーシンクの力と動きに引き込まれるように左へまわった。
すかさずヘーシンクの右足が飛ぶ。神永の膝が落ちる 「技あり」にこそならなかったが、明らかにヘーシンクのポイント。
ヘーシンクはそのまま寝技に入る、横四方固め。
場内に悲鳴が起こる、「神永頑張れ」の声が場内にこだまする。
その声に後押しされるように、かろうじて抑え込みから逃れる。
ポイントを取られた神永は、ここから必死の反撃にでる。
しかし、リードを奪って余裕のヘーシンクは、全く動じない。
神永は無理な体勢から攻撃に出ようとするため、スタミナをどんどん消耗しているように見える。
決勝戦の時間は10分。8分を過ぎたころ神永に焦りの色が濃くなった。
8分40秒になった時、神永必死の体落としにいく。
疲労の為か切れ味が悪い。
体制が崩れたところをすかさずヘーシンクは、手で神永の足を払い、寝技にもち込む。
ここからはパリのコピーを見ているようだった。
主審の「抑え込み」の声とともに、がっちりと袈裟固めが決まっていた。
十秒、二十秒・・・・。三十秒はあっという間に過ぎた。
その瞬間をNHKラジオアナウンサー河原武雄は、
「日本の柔道敗れました、今や柔道は日本だけのものではありません、柔道は世界の柔道になりました、新しい時代がやって来ました」と叫んだ。
ヘーシンクの勝利の瞬間オランダ選手団の一人は喜びのあまり、畳の上のヘーシンクに駆け寄ろうとした。
「この時、一万五千人の観客は、ヘーシンクとは何者かを見た。
ヘーシンクは右手をかざした。
畳に駆け上がろうとするオランダ青年を制したのだ。
武道館に衝撃が走った。『負けた』と日本人の誰もが思った。
正しい柔道を継承し、力や技だけでなくその心まで会得していた者は、ヘーシンクその人だと観客は知った」
(馬場信浩「ヘーシンクが”日本”を抑え込んだ日」『スポーツ・グラフイック・ナンバー』昭和58年10月20日号)」
ヘーシンクは倒れたままの神永を助け起こした。
神永はにっこり笑って、ヘーシンクの差し出した手を握った。
「正座して衣紋を直す神永の顔は真っ青で、泣いているように見えた」と瀬戸内晴美(後寂聴)は書いている。
礼を終えたヘーシンクは、神永を促して貴賓室にいた皇太子に一礼して、試合場を去った。
一万五千人の大観衆のどよめきを後に、ヘーシンクは控室に戻って待っていた道上の手を無言で握った。
握手を交わした後、ヘーシンクは一歩下がって、日本式にていねいにお辞儀をして、「有難う御座いました」と日本語で道上に礼を尽くした。
これらの一連の出来事を見た日本人はびっくりした。
しかしヨーロッパでは当たり前のことだった。
少なくとも道上の見ている前では、どの道場でも一礼してから上がる、道上が来るまで皆一列で正座の上整列して無言で待つ。
当たり前のことだ。
試合の最中もヤジや私語は一切ない。
禅に通ずると道上が言っているがこれが本来の柔道である。
現在の様にロックの音楽が鳴り響く場所で食しながら見るものではない。
ヘーシンクは日常通りにやった までだ。
金メダルを授与される表彰式を、道上は会場の片隅でみていた。
そのときの様子を伝えた珍しい報道が有るので、引用しておく。
「武道館のメインポールに異国の旗が上がって行く。
ヘーシンクの育ての親、アンチ講道館の野人として知られる
道上伯氏は、ひきつった顔をオランダ国旗の方に向けたままだ。『今こそ宿願の打倒講道館をはたした。
しかし日本は敗れた・・・。』
道上氏の感慨は複雑なものであった。」
(『週刊現代』昭和39年11月5日号)
三年前の世界選手権で素直に喜んだ道上だったが、今回は愛弟子にとはいえ日本柔道がかくも無残に敗れるのをみると、日本柔道の先行きに対し暗澹たる気分を拭えなかった。
このまま武道の柔道がスポーツのJudo に成るのだろうか・・・。
次回は「家族をフランスへ」
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。