「古武士(もののふ)第40話 道上の指導方法」
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道上の教え方は「馬鹿野郎 もっと気合を入れろ」などと言うような根性論では無く、非常に合理性を追求した、エレガントなものであった。
形(かた・型)と言うものを重視し、形が全ての基本であった。
初段の昇段審査では、投げの形を弟子達は大変な試練を重ねやっとの思いで完成させていった。
試合で勝つ事などとは比較にならないほど形の練習には大変な努力が必要だった。7~8か月は明けても暮れても形ばかりやらされた
掛け手と受け手を交互にやって行く。身体は柔道着で擦り切れるため夏などは決して日光浴は出来ない。
受け身の手は腫れ上がる事もある。受け身の練習も相当やらされる。受け手が上手くなければ成り立たない。
どんな状況でどんな武器を持って挑むのか理解しなければならない。
また一つ一つの技の持つ意味合いを丁寧に教えた。
幾何学的に説明され、人間の動き、そこに係る力学、技をかけるタイミング、立ち位置、また相手の身長、手足の長さに応じての技の起点が変わってくる。
身体の一部に力が瞬間的に加わったとき、それをとっさに押し返す習性を人間は持つ。条件反射と言うものだ。
相手の条件反射を引き出す動きの練習も、準備運動の中に取り組まれ毎日基本動作として練習させられた。
これらは戦後の日本柔道にはない。
教える先生がいないからだ。
ましてや講道館は寝技を含めそういった事は教えられない。
相手の動きに応じて相手の条件反射を促す。
その一連の動きを自身が条件反射的に行なえるよう毎日練習する。
足の動きだけではなく、腕肩腰の動きも条件反射の応用で練習する。
たとえば左足を前に出す際に右足を半歩下げた瞬間に左足を出す。そうすると敏速に前に出られる。
また相手の懐に入ることができる。
また、肩を瞬間的に突くと条件反射で肩は前に出、その瞬間に相手の袖を引っ張り安定を崩し技をかける。
崩しが無くては自分に比べ極端に 力の劣っているもの以外技はかからない。
そういった事を体で覚え、しかも条件反射として瞬時に行えるようにする。
現在の柔道は力の勝負に成っているため見るに堪えない柔道になってしまった。
立ち位置は相手が大きいか小さいかによって、またどちらに動こうとしているかによって変わってくる。
相手の二本の足に対してこちらの踏み込む足、その足の位置によって正三角形になったり二等辺三角形になったりする。
相手のいかなる行動にも対応し、まるで将棋の詰めの様な戦術だ。
幾何学の図形を描いているようだ。
しかもその連動性を重視する。
仮にこの技をかけて逃げられても、もう一つの技でさらに詰めていく。
そういった事を 体で覚え しかも条件反射として瞬時に行えるようにする。
力任せの崩し(重量移動)では無く相手の動きに合わせ その力を利用しながら技を加速させていく。
だからその移動する瞬間が 技をかける瞬間なのだ。
でなければ自分より力のあるものを崩す事は出来ないだけでは無く技もかけられない。
戦前の柔道は技が決まるのが早かった。
試合開始とともに技が連続的に掛けられていた。
これを理解した多くの人々は、柔道がいかに科学的であり合理的であるかを知り、また高邁な精神を併せ持つ、その崇高さに敬意を表した。
アエロ・スパシアル(フランス宇宙開発社)第一人者のピエール・レスパードは道上を尊敬し道上のかばん持ちを志願した。
フランスのスーパー・エリートが道上のそばにいる事が感動の毎日だったと言っている。
それは実生活においても学ぶものがあった。
正しく技をかけた時にはびっくりするほど軽く、スピードがあって、しかも破壊力を生む。
足車などで相手が弧を描く様はその極致であった。
技が上手くかかると、その動きは非常に美しい。
一般に、柔道家はガニ股で歩くごついイメージがあるが、柔道本来の動きは非常にスマートで全ての動きは内股だ。
オリンピック100m走の決勝を正面から写した映像を見ると競争馬の様に一本の線を右左と内股で交差させるように向かってくる。
そこには無駄がなく、無駄のない動きとは様式美そのものだ。
武専の生徒は身長は180cm以上の者もいたが体重を80kgを超える者はいなかった。
筋肉が付きすぎると動きが遅くなる一方、激しい訓練を続けると、筋肉は脂肪を食い、さらに筋肉まで食っていき余分な肉は無くなる。
道上の全盛期も173cm78キロ 肩幅は人並み外れていたが 80キロ超える事はなかった。
逆に66キロになった時もあった。まるで軽量級・中量級のボクサーのようだ。
彼らボクサーはチャンピオンになる寸前まで結構細い場合が多い。引退前になって筋肉が付いてくる。
今のように力で打ち負かすのではなく、技と鍛錬による柔道はヨーロッパの多くの有識人をも魅了した。
道上道場では茶帯(1級)を取るのに大変だったと同時に、フランスでは高校生が茶帯だと結構尊敬され、喧嘩を吹っかけてくるものもいなかった。
白帯の愚息でさえ、日本に帰国後(18歳)は日本の初段、2段あたりでは彼にかなう者はいなかった。
それほど当時の日本柔道とフランス道上柔道の差は大きかった。
ホンダのスポーツ・カーが高速を時速150キロでカーブを切ろうものなら即座に回転脱路してしまい、ソニーはパクリ物、セイコーの時計は安物と思われていた時代に、ヨーロッパ人、アフリカ人たちが勝てない憧れのものがあった。
それは武道という日本文化であった。
決して力で抑え込むものではなく、力学、技術、訓練に導き出される瞬発力、破壊力。 その奥の深さに皆が日本に尊敬の念を抱いた。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。