山宣と私 井出亜夫
1929年(昭和4年)、治安維持法改悪に反対し時の権力の手先によって暗殺された山本宣治「山宣」は私にとって歴史上の人物です。
しかし、それから20年余り後、私の叔父井出武三郎が山宣の次女美代さんと縁を得てから、山宣は単に歴史上の人物だけでなく親戚の一員となり、叔母美代さんの長女民子さん、次女文子さん(山宣の孫 永島民男さんは文子さんの夫)とは従姉妹の関係となりました。(父井出一太郎は、近親所感として「この国の 恥づべき歴史 ゆゑなくて 一科学者の命あやめぬ」と山宣を追悼しています。)
山宣については、高校時代の教科書にも人権と民主主義擁護のために戦った偉大なる先人として紹介されていました。それを契機に西口克己著「山宣」、映画「武器無き戦い」等で詳しくその実像を理解しました。そんなことから、是非一度、宇治にある山宣の墓誌「山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋しくない 背後には大衆の支持があるから」(治安維持法改悪に反対する山宣最後の演説の一節を大山郁夫が書いたもの)を訪ねたいと叔父夫妻に相談したところ、毎年3月山宣の命日に、宇治で山宣祭が開かれるから来てみるといいとのお誘いを受け、約30年前に墓前を訪ね、山宣祭にも参加する機会を得ました。
山宣の長女治子さんは、美貌、才媛の方でしたが、先天性障害者であられました。山宣は、治子さん誕生のあと人々に一層やさしくなったという話を聞いたことがあります。山宣の墓誌は、戦前右翼や特高権力によって塗りつぶされたそうですが、戦後、山宣を偲ぶ会が堂々と開催できるようになった際、治子さんが「十七年 父の御霊の蘇る 今宵の集いは うれしかりけり」と詠んだ和歌が強く印象に残っています。
山宣死後の日本は、満州事変、日中戦争、第2次大戦と近代史の中で泥漿をさらに進みます。政治面では、5・15事件、2・26事件によるリベラル政治家の暗殺、大政翼賛会の成立と進み、大正デモクラシーの火は消えていきます。
昭和軍国主義旺盛時代、日中戦争を巡って政府・軍部を痛烈に批判した斉藤隆夫(当時民政党)は、議会除名に追い込まれます。斉藤は、これに対して「身を挺して万人の声を叫ぶ 諫言褒貶はいずれも軽い その文面を孔子の書に見ることが出来る 正邪は自ずと明らかになる」と述べていますが、正邪が明らかになるには山宣の暗殺を始め余りにも犠牲が多かった歴史を日本国民は辿ってしまいました。かつての同志、労農党大山郁夫が米国亡命から帰国し、山宣の墓をお参りした時、「山本君戦争は終わったよ もうこんなことは再び許さないから」と言って、墓誌に抱きついたという話も伺っています。
さて、戦後の日本は、多くの犠牲者の後、平和憲法のもと、冷戦体制下においても、戦前の歴史の教訓を踏まえ、朝鮮戦争、ベトナム戦争も一応回避して、ある意味で恵まれた国際環境の下、経済成長を主眼として平和裏に経過し、一応貧困の追放は達成し、ジャパンアズNO1といわれるような社会を形成してきました。
1989年ベルリンの壁崩壊崩、冷戦の終結により、今後は「市場経済システム」が長きにわたるとする楽観論が出回りましたが、現実の世界はリーマンショック、コロナウィルス・パンデミックに直面し、内外における貧富の格差の拡大、人類社会と自然界の相克である地球環境問題に遭遇し、「市場経済システムの在り方」、「デモクラシーの在り方」自身も問われています。
一方世界は、米国一極体制から、米中二極体制へと大きな変化を遂げつつあり、日本は、明治維新、戦後改革を経て第3の開国を必要としています。
バートランド・ラッセルは、「試練に立つ現代文明」の中で「西欧近代社会は、空間、時間を巡る地平線の拡大の一途を辿ってきたが、我々の歴史的視野は急速度で視野の縮小を辿っている」と警告し、また、現代フランスの哲学者ブルーノ・ラトウールは「コロナ危機は、人類を待ち受けている地球温暖化や新たな感染に対するリハーサルだ」と称しています。
生物学者としての山宣は、貧困の問題を契機に政治社会問題の解決に果敢に向いましたが、今日の状況で、山宣だったら如何なる対応をとるでしょうか。また、私たちは、現状に対し如何対応すべきでしょうか。
山本宣治とは直接の交流はなかったでしょうが、同世代の詩人宮澤賢治の「農民芸術概要」の以下の一節を念頭におき、具体的解を求めていきたいものです。
「われらはいっしょにこれから何を論ずるか……近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい・・・世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」
(2022年1月12日 記 東京山宣会会報への寄稿)