「古武士(もののふ) 第42話 類まれなる声」
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道上は類い稀なる声を持っていた。
彼が道場に上がると弟子たちの緊張は絶頂に達する。
試合になると、まず道上の「はじめ!」と言う声が鳴り響く。
短く、低い、そして強い無駄のない声が。
いっそう皆の気が引き締まる。
誰もひそひそ話する者はいない。
声援を送る者もいない。
ただ緊迫した空気の中に引き込まれて行く。
まず選手は組み手争いに集中し、自分の組手が取れ次第技をかける
決してかけたふりなどはしない。全力で掛ける。
引手にタイミングに全力を投じなければ相手に技を掛けられてしまう。
試合の勝敗が決まるのも早い。
だらだらと相手をうかがう様子はない。
負けても何も言われないが、のらりくらりやろうものなら 後で激しい打ち込み練習が待っている。 いや、そんなことより一歩間違うと敬愛する道上に見放されてしまうかもしれない。
「はじめ!」の一声にはそういった様々な意味合いが含まれている。
柔道界では道上ほどの掛け声を持っている者はいないと常々言われてきた。
一声で相手を奮い立たせる術を持っていた。
道上の声は非常に低く、歌で言えば、オペラ歌手のチェザリー・シェービー日本には無い声質だ。
一般の歌手の音程を 一オクターブ下で歌えるのではないかと思う程の低さである。 おそらく日本では稀有だろう。
イタリア、スペインにはいないと思われる。 ヨーロッパでもドイツか、あるいはロシアにだったらいるだろう。
普段の声は柔らかく静かで温かみのある声だが、いざ試合となると、いや普段の乱取りの掛け声でさえ 弟子たちの緊張と闘争心を剥き出しにさせていく。
一般に、声帯は長い方が低い声、短い方が高い声が出ると言われているが、それらはあくまでも声の質であって人を揺り動かす声では無い。
川の向こう岸に人を椅子に座らせ 彼の丹田めがけ大声で 「立ちなさい!」 「座りなさい!」 相手が威圧で思わず立ち上がってしまうまで全力で練習する。
しかも、こらあ~立て~、と言う思い、危ないから立ちなさい、と言う思いを区別して練習する。
声が出なくなるまで、喉から血が出ようと何が出ようと続ける。
全力で強い思いを込めて思いが相手に伝わるようになるまで。
大声でやっと相手が立つようになると今度は1メートル以内まで距離を縮め、 小さい声で「たちなさい」「座りなさい」自分の思いが小さな声でも相手に強く伝わるようになる。
同じ迫力、同じ影響力をもたせながら。
こういった訓練は戦前ではあったようだが今はあまり聞かなくなった。
道上は小学生の時たびたび300メートルはある裏山に駆け上がり、夜中の12時ちょうどに 寺の鐘をならし、大声を張り上げる練習をしたそうだ。
1000人の敵が来ようとも自分の一声で踏みとどまらせるように。
何処に向かって?どのようなことを?
今となっては知る術も無い。
ただ愚息によく「学生真っ赤に焼けた鉄の如し、今学ばずんば
終生もろし」と
「鉄は熱い内にトッチンカン トッチンカンと叩くんだ」
しかも愚息がもらった手帳には (少年よ大志を抱け)と書いてあった。
後、帰国した愚息が最初に習った歌(詩吟)は「偶成(少年老い易く学成り難し)」だった。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。