「古武士(もののふ) 第57話 家族の団欒
八幡浜製造業編。」
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道上の八幡浜自慢はまだ続く。
江戸後期からイワシ漁が盛んだったことは前述の通りだが、買出船交易で持ち出した産物の一つはイワシの魚油製造の過程で出来るしぼり粕だ。イワシの油粕が綿花の肥料に適していたことから当時綿花の産地であった播州播磨地方へ移出、 代わりに篠巻を買い取り農漁家の副業として糸を紡がせた。
海上にシルクロードならぬコットンロードが生まれたのである。
確かに八幡浜人はおしゃれだった。
当初マニファクチャーが多かったが日清戦争時の好景気に異常な発展を遂げ、 資産も充実し設備改善のための資金や、蓄えを作ることができた。 併せて品質向上のために努力を重ね昭和初期まで織物の産地として栄えたのも八幡浜の一面である。
特に大正時代に第一次世界大戦で英国製品の東洋市場への輸出が途絶えると、代わって我が国の綿布が進出するようになった。
当地方でも輸出向けの大正布を製織し神戸の貿易商によって東南アジア方面へ盛んに輸出された。
中でも英国製品に似た縞三綾(しまみつあや)は現地での評判が頗る良く、 昭和の金融恐慌でも輸出が伸び綿業界はアジア、アフリカ、ヨーロッパ、 中南米へと販路を拡大する中で、当地の良品質の縞三綾は南方諸地域への輸出を伸ばした。
長きに亘り高品質製品として信頼を勝ち得て来られたのは苦境にあっても捨てない八幡浜人の弛まぬ向上心と努力の為せるところだと感じて止まない。
個人企業として日本最大規模の漁業会社に成長させた業界の雄もいた。
昭和18年から多角経営に乗り出し、海運業、機船底引き網漁業を始める。
終戦後、昭和27年に下関を拠点とした以東底引き、更に長崎を拠点に以西底引き網漁業に進出。
その後多くは下関の以東底引きを、国の漁業調整事業に乗り釧路を拠点としてオホーツク海、ベーリング海で操業する北洋大型トロールに転換。
更に南方遠洋トロールに進出し大西洋ラスパルマスを基地にスペイン領サハラ沖でタコ、イカ漁の操業を始めるなどした。
道上はヨーロッパのみならずアフリカの殆どの国へ柔道普及のため出向いた。
その中でもイル・ドラ・レユニオン島、マダガスカル島は真にアフリカの南端であった。
1950年代のある日道上がマダガスカル島の桟橋を歩いていたところ、向こうから日本人らしき船乗りが歩いて来た。
当時外国で日本人は珍しかった。
道上が「日本の方ですか」と声をかけた。
「はいそうですが。」
「お国はどちらですか。」
首を傾げながら「愛媛県の八幡浜です」。
すかさず道上は「八幡浜のどちらですか」
「八幡浜のどちらですか?・・?向灘組です」
「飲みに行こう」
こうして朝まで飲んだそうだ。
偶然という事もあるだろうが、地の果てまで漁に行っていた事が窺える。
宇和紡績会社は明治20年創業の、四国初の紡績業。
工場の自家発電が、四国初の電灯となった。
愛媛県で一番最初に銀行が出来、愛媛蚕種も明治17年蚕種製造開始。現在も西日本で唯一蚕種製造を行っている。
1927年創業のお菓子の国「あわしま堂」は西日本最大級の生産量を誇る。
唐饅(とうまん)、タルトは今でも懐かしい。
蝋座、晒し座、締り役、鬢付け油は全国シェアを握っていた。
八幡浜では身体がデカければ褒められ、酒が強いと豪傑、勉強が出来るとペテン師と極端なことを言う。
だがそれは漁師であって、商才に長け、先見の明があり、目は常に外地に向けていた人も多かった。
そんな資質を持つせいか。
西井久八は明治11年横浜港を出港したアメリカ移民の先駆者であった事は以前にも記述。
アメリカ西海岸に日本人移民が多かったのは彼によるところが大きい。
また、飛行機の父と言われている二宮忠八は、ライト兄弟が空を飛んだ年の12年前に大型模型ではあったが動力飛行実験を成功させた。
何故ここまで道上は八幡浜を話すのか。
ヨーロッパは宣伝の国だ。
その内わかるでは世界に通用しない。
自分の家庭にまで戦車で乗り込まれ蹂躙された人が多くいる国、それがフランスだ。
周りを6か国に囲まれ、自分たちのアイデンテイテイを常に表現するのがひしめき合っているヨーロッパの常だ。
日本しか知らない愚息たちには何を息巻いているかがよく分からなかった。
なんとなくわかったのは、道上が常に世界規模で考え意識しているということを。
もっと日本人は頑張らなければ世界に取り残されて行く。
柔道も例外では無い。 との思いだった。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。