「古武士(もののふ) 第60話 愚息」
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文芸春秋の元編集長に「もののふのタイトルは愚息だ」と言われました。
今回60話のテーマは「愚息」で行きます。
愚息道上雄峰は愛媛県八幡浜で生まれましたが、
2歳の時に父道上伯が渡仏し、以来10年間会えなかったのです。
10年後に雄峰も家族とともに渡仏したが、忙しい道上とはあまり一緒には暮らせなかった。
しかもフランス語上達の為自宅ではなく、下宿、寮の生活の方が長かった。
幼年時代の雄峰は普通の子供とあまり変わりなく見えたが、実は自閉症だった。
母親が仕事で帰りが遅くなる事も多かった。
姉たちとは年が離れていてあまり一緒に遊んではもらえなかった。
家の屋根に上り空と交信する事が多かった。僕はどうしてこういう暮らしをしているのだろう、宇宙の先に在る物は何だろう、神はいるのだろうか・・・。
自閉症の為か無口な子だった。口の代わりにすぐ手が出た。
べらべらしゃべる「先生のえこひいきの子」をしょっちゅう殴った。
表現力がないので暴力に訴える事もしばしばだった。
幼稚園、小学校でも村八分だった。
先生にさえ「雄峰君と遊んではいけません、乱暴だから」と言われていた。
とにかく言葉が嫌いだった。人がやった悪さが雄峰のせいになることはしょっちゅうであった。
先生が黒板に書いた間違いでも雄峰が指摘すると叱られた(他の者たちの指摘は褒められた)。 小学校でも答案用紙をまず人の名前で出し、採点後自分の名前に書き直していた事が多かった。 絵をかいても他の生徒の名前で出すと五重丸だが自分の名前だと二重丸かせいぜい三重丸だった。
処世術が嫌いな子供だった。
ある日小学校一年の時先生に知能指数が全国一位だったと知らされる。
180点以上の点数になると先生にも知らされなかったというから300点満点の200点ほどだったんだろうか。
よく神童は大人に成ると馬鹿になると言われるが、
それを地で生きているような子だった。
まったく横文字も知らない状態でフランスへ行ったため最初は小学1年生に入った。
小学1年生は保育園幼稚園へ行った事のない生徒が行くクラスだった。 普通は2年から入学する。フランスでは当時小学校は5年制、中高等学校は7年制だった。
半分以上が小学校卒で働きに行っていた時代だった。
ある日ひょんなことで先生から算数の質問をされ簡単に答えてしまったため、
小学生、中学生、高校生の算数、数学の試験を受けさせられた。
採点したら全問正解で先生がビックリ。
中学か高校へ行くべきだと言いながら 翌日から五年生に上げられてしまった。
しかし五年生のレベルでは何を言っているのかチンプンカンプン。 雄峰渡仏半年目の事だった。
まったく授業についていけないのでわずか1カ月で三年生に格下げになった。
相変わらず表現が上手くできず、すぐ人を殴っていた。
いじめられていたのかいじめていたのか未だにわからない。
雄峰にとってフランスでのストレス解消法だったのかもしれない。
しかし喧嘩ばかりするためとうとう小学校を退学になった。
当時フランスでは、いじめられる日本人の多い時代にあって雄峰は異端児だった。 パリでも日本人は珍しく、ましてやフランス南西(ボルドー)では日本人と出会う事はなかった。
小学校復習2年生クラスがあり、そこへ行った。その後中高等学校(Lysee)に編入。
ここでも数学だけはずば抜けて一番だった。 体育と絵も一番だったが、他の教科はからっきし駄目だった。
ただフランス語は上手になっていた。
会話で分からない事はなくなっていたが相変わらず人のせいにするのが得意なフランス人の前では相変わらずの自閉症だった。
そのため人がやった悪さを雄峰のせいにされる事が多かった。
その仕返しは必ずしたが、毎月職員会議にかかりそのたびに外出禁止や停学になった。
ある日フランス人の同級生に言われた。
「人種差別をしているのは僕達では無くおまえだ」と。 そうかもしれない。
一対一の喧嘩が雄峰対フランスの喧嘩になっていた。フランスが嫌いだった。
フランスでは表現しなければ置いてきぼりになる為、知らず知らずのうちに自己表現をすることを身につけるようになった。
この頃の大きな問題は二国間の言葉の問題だった。
長くフランスに住んでいると日本語を忘れる。 一方フランス語は上手くなる。
丁度フランス語能力と日本語能力がほぼ同じになった時危険な状態が起きた。
自分が分からなくなる。私は誰?ここはどこ?の状態だ。
失語症に掛かり自分のアイデンティティが分からなくなっていく。
ここで一例を上げよう。
あ~という音を大きな声で発すると(真言・マントラ)肺が共鳴する。
人間が情緒的になる。ちなみにスペイン語に多い発音だbatatas fritas (フライドポテト)。 スペイン人はプライドが高く思えた。柔道の練習で相手を倒すとにらみつけてくることが多かった。
い~の場合眉間が共鳴する。人間が率直に成る。
イタリア語に多いi pisellini (小さいえんどう豆)。
イタリア人は愛情をストレートに表現する。「愛しているよ!来世も一緒にいたい」
問題は翌日別の女性にも同じことを言う事だ。
う~はドイツ語に多い umgebungsindustrie (環境産業)。
ウーは丹田を刺激する。ドイツ語の言葉は意味が深い。
え~は甲状腺を刺激する。人間が合理的になる。
ファースト・フードの発祥が多いのは英語圏である excellent (素晴らしい)。
お~は心臓を刺激する。超常感覚機能が発達する。
ロシア語に多い発音だOBOЩHOЙ (野菜)。ロシアは世界で最もテレパシーのようなものを研究している。 そういえばラスプーチンもロシア人だ。
では日本人はどうだ?
日本語の発音は語尾が落ちる。「僕が\↓」と最後の音が落ちる。
日本の古い歌はストレートに声を出さないで一端飲み込んでから発声することが多い。 しかも音よりも音と音の間の「間」を重んじる。その「間」の為に音を出すと言う事をある三味線の家元に御教授頂いた事がある。
これだけ極端な差があると二か国語が同じように話せると人は迷う。
言葉の持つ意味が異なる。 たとえばアイデアという言葉はアイデアと訳されるだけではなく、いろいろな意味を含む。またその逆もまたある。
しかも人間は言葉を通して考える事が多い。
日系二世が全く日本人と異なる顔をしていることが多いのはなぜだろう。
日本で生まれ育った外国人は日本人のようなオーラ持っているが決して食べ物や気候のせいでは無い。
雄峰は自分のアイデンティティを取り戻すべく、フランスの学校を飛び出しスウェーデン経由で日本帰国を考えた。 スウェーデンでは当時お金がない外国人を自国へ強制送還させた。 そこで日本に帰れると勝手に思い込んでいたが当時国際法で二十歳までは父親の許可なしに海外には行けない。
雄峰17歳。馬鹿だった。
以前にも書いたが、帰国することでも相当道上に叩かれた。
しかしある国家試験に合格し、先に帰っていた清水猛(義兄)の受け入れ許可のお蔭で日本へ帰国が許された。
帰国後早速日本で受験したが何処も受け入れてもらえず、唯一東京九段下にあった暁星高校に受け入れてもらえる事になった。
受験した時には中学二年に編入することでどうかということだったが、17歳になっていた雄峰にはあまりにも落差があったため、 お願いして何とか高校一年の二学期からの入学となった。
当然日本語の方がフランス語より下手だった。
それも自身ではまったく気がついていなかった。 本人はしっかりしゃべっているつもりでも通じていないとよく同級生に言われた。 何といっても試験の問題が分からなかった。漢字も文章も。それでも日本に帰れてうれしかった。
日本語もフランス語もおぼつかないにもかかわらず雄峰は早速フランス語の個人レッスンを始めた。そしてフランス語の通訳もやった。 日本語もフランス語も下手だったが、会話において雄峰ほど日本語が出来るフランス人はいなかったし雄峰ほどフランス語が出来る日本人もいなかったためごまかしがきいた。
しかもかなりの高給をもらっていた。
帰国当初は雄峰も学校では人気者だった。フランスの出来事をよく質問された。
半年ぐらい経ったころには周りには誰も居なくなっていた。
変わり者は排除される処世術の国が日本だった。フランス以上に日本で差別された。
外国帰りと言うだけで付き合っている女性との間を引き裂かれた。
会社はどこも採用してくれなかった。今とは真逆の時代だった。
フランスで日本国の看板を背中に背負って戦ったつもりでいた雄峰は
心のなかで「俺の祖国は何処だ!」と叫ぶ毎日だった。
帰国後三年経ったころだろうか
またしても日本語とフランス語の語学力が均等に成った途端再び失語症に掛かり、 私は誰?ここは何処?の状態になった。
ところが卒業後同じ帰国子から聞いたことは思いがけない事であった。
暁星高校は一学年10人ほどの帰国子が在籍していた。
その大半が精神病院に通っていたと言う。
雄峰には精神病院に通うなどという知識もなかった。
だったらどうしてもっと早く僕に打ちあけてくれなかったのか。
きっと皆一人で悩んでいたのだろう。
人に話しても理解されない内容だった。
親の仕事の関係で海外で生活した子供は多い。良い意味でも悪い意味でも変わった日々を送ったはずだ。 子供は半分外国で半分日本で暮らさせようと言う無知な母親が当時もいた。その言葉で多くの帰国子女の反感を買っただろう。
人に言えない、言っても理解されない苦しみがあった。
雄峰の支えは父道上伯が強かったことだ。
どういったことにも、へこたれない姿勢が、私は誰?ここは何処?
そんなやわな事を気にしない勇気を貰えた。
ただあのままフランスに残っていると自分がどうしようもない人間になって行くと思った。 やはり日本語でも良い、フランス語でも良い、自分の軸となる文化 言語を持つべきだといまだに思う。
帰国子女が雇用されない時代だったため
雄峰は大学在学中に貿易会社をつくった。そのまま今日も同じ会社を営んでいる。
三十歳を過ぎた頃からだろうか、物を売るために必死で喋るようになったが今でも自宅では無口だ。
自閉症の人間を身近にして最近初めて自閉症の存在を知った。
今の若い世代は世界中同じ格好をして同じ音楽を聴き同じスマホを持っている。
外国との距離が無くなった。
本当にこれで良いのだろうか?疑問が残るところだ。
日本に帰れることで思いが具現化した雄峰とは裏腹に、フランスに残された道上伯は残った女房とほとんど口をきかずまた一人の生活に戻った。
ボルドー、海外と飛び回っていたが、パリにはトランジットで泊まる程度だった。
夫婦仲は冷え込んでいた。
日本へ帰った当時、雄峰は日本に戸惑ったが、
道上伯と現代の日本社会との穴は埋まらずじまいだった。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。