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        「古武士(もののふ) 66話 女房小枝」

        ________________________________________

         

        志摩子が、そして雄峰が日本へ帰って10年経った。

        女房小枝の仕事は順調であったが、簡単ではなかった。

        池坊のヨーロッパ支部長と言えば聞こえは良いが

        日本の様に家元制度的な商売はフランスでは通用しない。

        フランス人生徒は半年も習うと独立して自分のやり方でやって行く。

        まだフランスブーケなどという言葉が無い時代でただ新聞紙に花を投げ込む程度だった。

        しかもパリの花は高かった。日本のおおよそ3倍から5倍。

        夕食に招待されてもケーキとかチョコレートのセットを持って伺った方が安くてしかも喜ばれる時代だった。

         

        小枝はパリの南に位置するRangis(ランジス)市場で花を買って教材に使っていた。

        膝のリュウマチで苦しんでいたがフランスではどうする事も出来なかった。

        大きな教材を運ぶのも一苦労だった。道上の苦労から学ぶことが出来ず、日本的やり方の一本調子であった。

        頑固な小枝のやり方は道上にしてみればお遊びにしか見えていなかったのだろう。

        確かにサロン・ドトーヌの審査員と言えば聞こえは良いが名誉職のようなものでたいした収入にはならない。

        ルーブルの展示会に駆り出されたと言っても大したギャラでは無かった。

         

        数多の芸術家がひしめくパリでは少々のことでは食べていけない。

        本場だからこそ反って厳しい場所であった。

        花の道は奥が深いと主張する小枝を道上は評価していなかった。

        確かに道上は物差しで線を引くような絵しか描けないが、物を見る目、センスは抜群であった。

        それは生き方においてもだった。

         

        見るに見かねて長女三保子は小枝に再三日本に帰って来るようにと手紙を出した。

        小枝が帰国を決意したのは1979年であった。

        生け花を広めるべくフランスで奮闘したが言葉 のハンディを克服する事は出来なかった。

        パリは外国人にとって厳しい街だ。

        日本へ帰れば娘、息子もいる。何と言っても住み慣れた国だ。

        やはり50歳過ぎてからの海外生活は苦労が多い。

        特に当時は今とは真逆と言えるほど厳しかった。

         

        三保子の説得の末帰国した小枝だったが、三保子は一切小枝の面倒を見なかった。

        結局 大宮の志摩子がずうっと面倒を見ることになった。

         

        小枝は八幡浜に帰る事を拒み 東京に住んだ。

        持ち前の頑張りで、朝日カルチャーにフランス・ブーケを誕生させクラスを設けた。

        世間から評価を得るにはまだ時期は早かったが、生徒の数は数百人に及んだ。

        1980年代の事だった。

        愚息雄峰も商売が次第に軌道に乗り、小枝を援助するようになった。

        一人になった道上は良く手紙を書いて来た。

        愚息に届いた手紙は、手紙を書け、と口が酸っぱくなるほど書いてあった。

        しかし愚息が書いた手紙は誤字当て字が多く、その手紙に対して赤一色で添削されての返却であった。

        そんなこともあり愚息も次第に手紙を書かなくなった。

        大宮の姉に聞くと彼女も相当赤線添削で送り返されていたそうだ。

        昔の人は几帳面で達筆だった。言葉を大事にした。

         

        1970年代に最後まで志摩子が看病していたが、

        そのかいもなく母リキは息を引き取った。

        父の時と同様今回も道上は葬儀に帰る事が出来なかった。

        電報で知った道上は後に志摩子から送られて来る手紙を一人寂しく読んだ。

         

        この時にフランスで骨を埋める事を決意したのだろう。

        愚息にこんなことを言った。

        「お父さんが死んだら骨はガローヌ川(ボルドーの川)に流してくれ。

        1年も経てば愛媛県八幡浜に着くだろう」

         

         

         

         

         

         

         

         

        【 道上 雄峰 】

        幼年時代フランス・ボルドーで育つ。

        当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

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