「古武士(もののふ)
第70話 道上一時帰国中 日本での食べ物」
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1970年代にはまだ弟武幸が健在だったため毎晩弟を連れ何軒も食べ歩いていた。
二人ともよく食べよく飲んでいた。
武幸は末っ子であまり苦労せず育ったためだろうか、身長が183cmあったと記憶している。
当時では大男である。
三男の伊勢春は逆に身長は低く、弟武幸、妹のり子をしょっちゅうおぶっていた為に背が伸びなかったと言われている。
次男である道上は、長男亀義には頭が上がらなかったが、人柄も温厚で何処か抜けているところがある武幸に対しては、よく叱っていた。 これも道上の親愛の情かもしれない。 武幸が道上に付き合ってくれる事は次女志摩子、愚息雄峰にとって大変助かることで、二人とも武幸には心から感謝していた。
その頃道上は赤坂東急ホテルを定宿にしていた。
道上は人から食事をおごられる事を好んでいなかった。
何処へ食べに行くにも彼が支払っていた。
だから愚息が払おうとするとかえって叱られた。
「お~い、レシートを持って来んか。」
ホテルの一階にあった中華料理屋龍園で食べ、更に赤坂の繁華街へ繰り出した。 飲み歩くのが目的ではなく、食べ歩くのであった。 二人の食べる量も飲む量も半端ではなかった。
ゆっくり食べゆっくり飲むため宴は延々と続く。
外食は決まって中華料理であったが、梯子の場合二件目からは弟武幸の案内で和食料理屋にも行った。
しかし洋食は一切口にしなかった。 中華料理が好きとはいえ、やはり日本食に飢えていたのだろうか。
当時フランスではろくな日本料理屋は無く、日本食材も乏しかった。
米も細長いぱさぱさしたもので、南仏で取れる一番安いコメが日本のコメに一番似ていた。 中華料理もヌーベル・シノワの様な懐石風に少しづつ出て来るものを好まず、また飲茶はメリケン粉くさいと言ってあまり好まなかった。
やはり中華料理の醍醐味、大皿で供されたものを食べる事を好んだ。
風土 フランスで自分で作る時は何処でどの様にとれたものかに気遣い、あまりソースで味付けをせず、素材の味を生かしたものに徹底した。
charqueterie (豚肉加工品)、飲みもの、パン以外は全て行きつけの朝市で吟味して買っていた。
生ハムは Bayonne から送らせ、鶏はボルドーの郊外の放し飼いのものを買いに行っていた。
鶏肉は多少硬かったが味があった。
ワインもシャトーまで車を飛ばし、買いに行っていた。
ワインは作るところから観察していた。
風味 味はよく分かっていたが、味の分析のような事は一切口にしない。それどころか出されたものは必ず食べていた。美味しい時には美味しいと言っていたが、そうでない時には無言で食べていた。
風景 やはり一番こだわったのは「誰と食べるか」であった。決して高級なところへは行かなかった。
当時日本ではワインはまだ珍しく、殆どの店に置いていなかった。
ワインは1964年の東京オリンピックに向けて各総合商社が大量に輸入したが売れ行きは悪かった。
1973年のオイルショックをきっかけにワインを輸入した大手商社はたたき売りをし、また倉庫代を考えると割に合わないため大量に廃棄処分した。
ワインが本格的に日本に入るようになったのは1980年代後半になってからである。
ワインが手に入らないときは道上は代わりに日本酒を飲んでいた。 1990年代になるとワインが無い時は、日本酒は甘すぎると言って焼酎に切り替えた。
当時赤坂は現在の様に居酒屋、韓国料理屋は少なく、アメリカ系の店が多く連なっていた。
しかも飲み屋の方が多かったが、武幸の誘いにも関わらずクラブの様な飲み屋には一切いかなかった。
そんな赤坂でも気軽な和食屋を弟に教えてもらい通っていた。
道上があまりにも礼儀正しいせいか、どの店でも対応が良かった。
「先生、今日はこんなものが入りました、是非」と言って勧めてもらっていた。
お店の味そのものよりもなじみの店であることを優先していた。
人との触れ合いが何よりの御馳走であったのかもしれない。
魂に栄養を 無言で、美味しいそうに、目は幸せそうだ。
父安太郎の食卓は板の間で正座し、まず安太郎が八方に手を合わせ感謝をする
それから高次元に頂きますと一言、みなは食べ始める。
道上は人恋しかったのか日本が恋しかったのか分からない。
彼の目には昔を思いだしているかのようだった。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。