「古武士(もののふ) 第80話 死 」
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道上は2002年8月4日昼に息を引き取った。
死に直面したときは大変苦しそうな顔をしていたが、
息を引き取った瞬間安らかな表情になった。
戦いは終わった。
愚息は一人、死んでいく道上を看取った。
身体が凍りついた。血の気が引いて行く。
まさかこの恐ろしい化け物が死ぬなんてことは考えられなかった。死ぬまで信じられなかった。 いや死んでも信じられなかった。
次女志摩子が救急車を呼んだ。
その瞬間愚息の血気が戻った。
愚息は道上の身体を抱え救急車まで運び、生まれて初めて父親を抱きしめる栄誉を噛み締めていた。
救急車の中で除細動器のカウンターショックにより再度復活を試みたが、時遅し。
道上が再び戻ることはなかった。
戦うために生まれ、戦い続けた男がやっとお役御免となった。
そんな穏やかな表情だった。
埼玉県大宮の病院の玄関で、愚息はすぐに後継者のブルノ・ロベールに電話で報告した。
電話では「父は死んだ」彼から「残念」の一言だが無言の数十秒が過ぎた。
そしてすぐに両角元日銀筆頭政策委員へ電話する。
「葬儀委員長になって頂けないでしょうか」彼は那須の別荘にいた。
「そうだな 僕しかいないだろう」。
(道上の周りは高齢で殆どの方が亡くなってしまっている)
葬儀当日は自動車を走らせ、葬儀が終わり次第とんぼ返りで諏訪へ戻られた。
しかも葬儀の最中、ご高齢にもかかわらず椅子に座ることは一度もなかった。
亡くなった埼玉県大宮で通夜を、また道上の生まれ故郷八幡浜とフランスのボルドーの道場でも葬儀を行う事に決めた。
愚息は本葬を東京最大の寺、増上寺で執り行いたいと考えた。
コネは無いので直接交渉することにした。
大殿は年に一回しか使わないとの事であった。
「今年はどこかやりましたか」「まだどこも」「では是非お願いします」
これで本葬を宗派の違う、東京芝の増上寺大殿で執り行う事になった。
フランスの多くの弟子から連絡があった。
ボルドーでも行うから皆に来ないようにと伝えた。
しかし弟子たちはやって来た。
中には年金生活者の人達もいた。
日程がお盆休み明けの8月19日の月曜日。
その前日の日曜日、前々日土曜日の飛行機などは混んでて予約が取れるはずがないと高をくくっていたが、
韓国経由で20数名が2日前17日にやって来た。
皆緊張の面持ちで三日三晩一睡もしなかった。
喪主の愚息も彼等に付き合った。
大宮の通夜は天気予報では台風、しかし大雨ですんだ。
芝増上寺の本葬も台風の予想だったが進路がそれた。
八幡浜も同じく。
パリは天気の問題ではなく他の困難が控えていた。
道上らしい嵐のお別れであった。
本葬の増上寺では1252人の人達が弔問に訪れた。
お花は遺影の周りには飾らず、遺影が見える壁にずらりと3段に並べた。
約600基の花が並ぶ中、フランスのシラク大統領、シャバンデルマス(元2度首相、長きにわたってボルドー市長)夫人、
アラン・ジュペ総理大臣兼ボルドー市長の弔文が届いた。
弟子ブルノの弔辞は 「道上先生の人生を一言で言うと忘己利他、その核となるべき言葉は友情でした。 先生はナポレオン、ド・ゴール大統領を敬愛していましたが、謙虚なあまり、彼らと同様に次代を担う稀有な人だという事を本人は知りませんでした。 日本の皆さん!我々は皆さん日本人を指示支援し、敬意を誓います」。
葬儀の後、大殿の地下では食事が用意されていた。
中には先生に一度お礼が言いたかったと言う人もいた。
愚息は何故生きているうちに言ってくれなかったのかと思った。
ボルドーの葬儀でも同じ言葉を幾度となく聞いた。
そう言っている人達は損得しか考えていない調子の良い人ばかりだった。
振り返ってみると 道上が時間を費やした人達は必ずしも出来が良いわけでは無かった。
道上が愚息に「雄峰、彼はいい男だ」と言う人たちには、礼を尽くしたが決して個人的に一緒に飲み食いする様な事はなかった。
「君子の交わりは淡き事水の如し」。
動画】故 道上 伯 儀 葬儀
平成14年8月19日 増上寺 大殿
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。