「古武士(もののふ) 第81話 フランスでの葬儀 」
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生まれ故郷の八幡浜、道上の生家での葬儀・納骨が終わり、
2002年9月5日いよいよフランスのボルドーヘ。
道上の骨が太かったので大きな骨壺に半分も入りきらず、
何度もつぶして、やっと二つの壺に納まった。
さてフランス出発となった時、突然フランスの航空会社のストがおっ始まった。
ボルドーの葬儀を断念する事は出来ない。何処経由でも良いから行かなければ。
どうにか唯一飛んでいる便に10名が潜り込む。
フランスに到着するとボルドー行きは1便も飛んでいないと言われてしまった。
乗り継ぎでパリ南部のオールリー飛行場へ。
そこからの臨時ボルドー行きが順番待ちの末やっと取れた。
葬儀の前日、姪の息子がやたらと痛がっている。
よく聞くと胸が痛いと言っている。昨夜ベットから落ちたらしい。
姪の旦那は「雄峰おじちゃん、お忙しいから気にしないでください」と。
そうは行かない。医者に連れていくとしてもフランス語が出来るのは僕しかいない。
しかし病院をたらいまわしにされた挙句、やっと治療をしてもらったのは8時間後の事であった。 後継者ブルノさんの奥さんによって、非番にもかかわらず特別に診てもらったのだ。
まだ10歳にも満たない男の子は鎖骨を折っていた。手当後はニコニコ笑っていた。
愚息は喪主でありながら言葉の解らない9人を引き連れて右往左往していた。
その昔家族がフランスに到着した時、道上がいかに大変な思いをしたかが分かる。
葬儀はボルドーの道場で行われる。
引き続きボルドー市庁舎で偲ぶ会が行われることになっていた。 その場で喪主としての挨拶をしなければいけない。
愚息は何をしゃべってよいか分からなかった。あわただしい毎日、増上寺での挨拶もぶっつけ本番であったが、今度はそうは行かない。 殆どの人が道上の弟子である。
夜眠れず、当日の朝4時、近くのカンコンス広場を少し歩いた。
道上と歩いた日々を思い出し歩いた。
広場はガローヌ川に面している。
「死んだら骨はガローヌ川へ流してくれ、そうすれば1年半も経てば愛媛県の八幡浜に流れ着くだろう」 そんな道上の言葉を思い出しながら歩いていた。
するとジロンダンのモニュメント(フランス革命を起こしたボルドー地方人達の記念碑)が目に飛び込んで来た。
フランス革命を起こし いつも議長の右側に陣取ったため、そこから右派左派と言う言葉が生まれた。そのジロンダンの記念碑だ。
道上を思いながら、「本当の右翼とは旗を振っている輩では無い。 強い者も、弱い者も、強い国も、弱い国も真に愛する人達の事だ。そのためには己が強くなければいけない。戦い続けながら生きなければいけない。 これぞまさに真の武士道精神だ」と。
道場では多くの花束が畳の上に投げ込まれた。
「先生有難う」「先生感謝しています」「先生のことは生涯忘れません」送り主の名前が書かれていないのが殆どだった。
道上家に贈ったのではない。道上個人に贈ったものだから。
愚息はお花を頂いた一人一人にお礼をする事も出来なかった。
道場の控室では人が並び、喪主である愚息は一人一人から挨拶を頂いた。
葬儀当日のボルドー市庁舎で愚息はお礼の言葉の最後に、
「道上は50年、心からボルドーを愛しました。 それは決して食べ物がおいしいからではありません。美味しいワインが有るからではありません。 ボルドー・ジロンダンの精神です。今日ここにいらっしゃる方は、道上の武士道精神を伝えていく伝道者です」 と挨拶を閉じた。
夜は道上がよく行っていた中華料理店に79人を招待した。
そして道上がいつも注文していたメニューをオーダーした。
79人の中には、相変わらず自分を売り込むのに必死の高段者達がいた。
高段者のテーブルに座ると道上の後は誰が機関車として皆を引っ張るんだとの会話ばかり。 若いブルノはあきれて席を立った。
79人、一人一人が道上への思いを発表した。
道上が可愛がっていた弟子のオーデュナーさんは自分の番が来たが、 まるで胸がつかえて苦しいかの様に、涙一杯の表情で結局言葉を一言も発する事が出来ないまま座ってしまった。
これこそが表現だった。一番大きな拍手を受けていた。
また一人一人をインタビューしながらヴィデオに収めた。
皆が言っていた言葉は「先生は第二の父親でした」「私のお父さんだった」。 「本当のお父さんだった」これからどう生きて行けばよいのか、というような表情であった。
翌日道上の遺言通り、ガローヌ川にふたつのうちの一つの壺から遺骨を散布した。
来週は後書きです。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。