5.その後の留学生との関わり そのあたりから中国留学生も国費から私費が多くなりました。 私費の方々は勉強というよりも半分ビザをとる手段で留学しますから、お金を貯める、自由を満喫するほうに比重が移りましたね。 鄧小平さんの改革開放路線から中国も変ってきましたね。 4つの経済特区を作って、2000年になってからは、南の方に行って「白い猫でも黒い猫でも鼠を取る猫が良い」とか言ったり、 「早く良くなる人から良くなろう」というような話が出て、それがみんなに浸透して今の中国になったんですが、私もその鄧小平理論はいいなあと思いました。 中国の留学生のお手伝いをするのもいいけれど、自分がやっぱりきちんとやっていかないといけない、人様に迷惑をかけるような日中友好をやっていたんでは、 これから日中友好のボランティアをやる人たちにも良い例ではなく悪例になると思い、徐々に活動を小さくしていきまして、来る人は面倒見るが自分からは出て行かないというかたちに変えました。 そして自分の専門の八百屋をまずきちんとしようということで、 八百屋を一生懸命やりました。今はだいぶ八百屋の商売も展開してきて食べられるようになっています。 昔 国費留学生で来ていた人たちは今は驚くほど高い地位に出世しています。そしてお金も持っています。中国に行きますと凄い歓迎をしてくれます。中南海だとか迎賓館に泊めてもらう経験なんてなかなか日本では経験できません。 胡耀邦さんにもお会いしましたね。それから周恩来の奥様、劉少奇の奥様、孫平花さんなどにもお会いしましたね。 日本から帰って偉くなって有名なのは、とうかせんさん。ぶたいいさん。おおきさんなど沢山いますね。 中国では新華社の経験とか軍隊の見学とか色々信じられないような経験させてもらいました。 私は自慢じゃないけれど上海外国語大学の16章に「五十嵐勝」って載っているんですよ。 中国の名鑑に載ったり、上海のテレビ局に出たり、このあいだは杭州テレビが来て撮って行きましたね。日本のテレビにもずいぶん出ましたね。 今は一切出ていません。昔の行動と矛盾すると嫌ですからね。 でも後の方は私費学生も多かったですから、偉いといっても色々な人たちがいますね。だいたい面倒をみた人達が丁度40から50歳になっているのですね。この人たちは今の中国共産党が一番期待をかけている年代です。彼等にはチャンスがありますしまた中国は早く幸せになったものが面倒をみる世界ですから、注目の的ですよ。 この間上海に行った時、なにか得体の知れないやつが迎えに来ていたのです。「先生―!」なんて言っているのです。見るとそいつは一番勉強しなくて、もうアルバイトばかりしていた学生で、私も頼まれてうなぎやに800円で紹介した奴でした。そしたら交通費貰って一週間でもう来ないと言うのです。それで「どうしたの」と本人に聞くと、「俺頑張って850円のアルバイト見つけた」と言うんですよ。 まいったですね。でもそうやって一生懸命お金を貯めてだいぶお金を持って1995年に帰って、上海で三つくらい物件を買ったそうです。それをローソンに貸したのを皮切りにどんどん土地を増やして、いまや10箇所くらいの物件を持って成功しているという。「おまえだいぶ儲かるだろう」というと、「うん儲かるよ、いくらでもおごるよ」とその日はご馳走になりましたが、次の日からこない。しっかりしています。上海に帰った連中はみな金を持っていますね。 大連にも、帰って大連工科大学の教授になったすごい力のある人がいますね。そんな人を頼ればずいぶん大きなことも出来るのかもしれません。でも私は悪いことが出来ないまじめ人間ですから、そういう人たちの伝手でなにか儲け仕事をするということは出来ないんですよ。よく中国人に言われます。五十嵐さんまじめすぎる、もっと悪いことしなきゃ駄目って。それでこの前電話したとき冗談で「たまには悪いことやるか」って言ったら、喜んで「やりましょう。いつ来るんですか?」ですからね。 大連の開発区の検査長の息子を3年間預かったことがあります。 これが頭はいいが勉強はしない、毎日焼酎飲んで働きもしない。 うちの家内が当時居酒屋をやっていたんで、そこを手伝わせたんだが、出てこない。 私も家内とその子の間に立って苦労しました。それが今偉くなってしまってジャガーに乗って出迎えるんですからね。(笑い・・・・拍手) 終わり 講座企画・運営:吉田源司 文責 臼井 良雄