第一章 亀裂 ⑨離婚の危機Ⅱ 「それはそれ、これはこれ。君のことと直接関係ないだろ」 「ソレハソレ、コレハコレデショウカ」 「楊くんよ、理屈はいいけど、とにかくね、明日にしてくれよ」 「僕、行クトコロナイ。帰ルトコロモナイ。ダカラ、五十嵐サントコニ来タ。ナントカシテクダサイ」 「いくらね、おれが面倒見がいいとか親切だとかいってもね、常識とかルールというものがあるんだ。楊くんみたいに、いきなり飛び込んでくるようなのが、のべつ現れていたら、おれだって困るの!」 フミと子供二人に言い負かされて少々面子をなくしかかっていた勝は、標的を楊高洋に変えた。 「いいかい、五十嵐勝は一人しかいないの。でもね、楊くんのような中国領学生は五人、十人、いやン十人、ン百人といてね、次から次へと訪ねてくるんだ・・・」 「ミンナ、感謝シテイマス。日本ノオトウサン、困ッタトキノ五十嵐サント、ミンナ、ミンナ、謝謝デス」 「それはそれでいいけどさ。つまりね・・・」 楊は両手に持ったスーツケースとバッグをどさりと床に投げ出すと、やおら膝を折ってゆっくり土下座した。 「おいおい、何やってんの、座りこんで」 「非常感謝。非常感謝・・・デス」 「フェイチャンガンシェ・・・って何だっけ?」 「トテモトテモ、アリガタク思ッテイマス・・・トイウコトデス、五十嵐サン」 楊はいい笑顔を見せて言いつぐ。 「謝謝ヨリ、ズットズット、気持チ深イノデス」 「ちょっと待ってくれてぇの!とにかくその土下座をやめてくれよ」「ソレデハ、今夜ココニ泊メテクレルノデスネ。オオ、非常感謝!」 「まだ誰も、そんなこと言ってないだろ」 楊くんはゆっくりと立ち上がると、かたわらにあった椅子を引きつけて腰を降ろした。 「ソー言エバ、日本カラ中国へ、遣唐使トイウ人ガ来タノ、 聖徳太子サンノ時代デシタネ」 楊は喋り出した。 紀元六百十八年・・・・いまから千三百七十年以上も前、中国では隋(ズイ)という国が滅んで唐が国を建てた。 日本はちょうど聖徳太子が摂政のころで、隋にもせっせと使者を送り、さらに唐になてからも使者を盛んに送り込み、九世紀の中ごろまで十数回にわたった。 この使者は、いまで言えば国が派遣した文化使節・・・・言い方を変えれば日本国を代表する留学生達であった。 初期のころは、百二十人ほどの遣唐使が二隻の船に分乗して出発し、 最も盛んな時には舟4隻に六百人ほどの者が分乗して黄海を渡り、 大陸を踏んでいる。 そして、最澄、円仁らのお坊さん、それに黄備真備(きびのまさび) などの学者が貴重な書籍や器具や道具などを持ち帰った・・・・・ 現在の様に船も飛行機もない時代に、船を造り、旅装をととのえ 危険をおかし、命がけの長旅で唐の都の長安(現在は西安市)まで 行った。かっての遣唐使たちが旅した江蘇省の揚州からざっと 千三百五十キロあまりも大陸の奥へと入った。 そして現在は、中国人の僕らが日本に学びに来ている・・・・・・ 楊くんの日本語は決して巧いとは言えなかったが、彼はおめず臆せず自分の思うところを、自信を持って述べた。 勝はもちろん、フミも実博も幸子も、楊くんの熱弁と豊富な知識に つい引き込まれ、ぽやっと突っ立ったまま耳を傾けていた。 「日本ト中国ハ、トテモ仲良シデシタ。ソノ日本ニイマ、僕タチガ 勉強ニ来テイルノデスネ」 勝は「そんなこと、とうに知っているさ」という顔をしてきていたが、そのじつ楊くんが、そこまで調べて知っている事に内心は舌を巻いていた。 幸子が気を利かして楊くんにジュース缶を出した。 謝謝と言って楊くんはゴクゴクとジュースを飲んだ。 「君はよく勉強している。感心だ。でもね、それとこれとは・・・・ つまり、いきなり俺の所へ押しかけて来るということは、別の問題だろ」 勝は、ふと我にかえ返ったように言った。 「とにかく頼むから、今日のところは引き揚げてくれ。家族でね、 あれこれ込み入った話もしなきゃならんのだから」 楊はただニコニコ笑っているだけだ。勝は何となく楊くんに一本 とられたような気分になっていた。 続く