第二章 出会い ⑤友人・北村徳夫Ⅰ その夜、9時過ぎに店を片づけ終わってホット一息入れて居る所に、 例の少林寺拳法をやる北村徳夫がほろ酔い機嫌で訪ねてきた。 商売もほどほどにいっているし、あまり心配ごとのないらしい北村は、見るからにおっとりしている。 息子二人と娘一人、もうそれぞれ独立した、というより勤め人として働いているから彼らの面倒をみなくてもいい。 もちろん息子たちは家業など継ぐ気はないが、北村もこの商売は これっきりでいいと言っているから問題は無いのだ。 北村の女房の静子は、フミと同様、こまごまとよく体を動かす。 北村もそろそろ60に手が届くはずだが、静子を大事にしていて、 何とも中睦まじい夫婦だ。 北村の店の升屋から取り寄せたビールを、大のビール好きの勝が 軽く3本のみ干していっそうなめらかになった口で、何となく冗談半分に中国留学生たちの話をした。 「ほら、すぐそこに中国留学生のいる寮があるだろう。近頃、あそこの学生がよく買い物に来るんだ。」 学生たちは必ず値が高いと言い、安くしろとくいさがり、ミエも 外聞もなく交渉してくることを、勝は面白おかしく尾ひれを付けて喋った。 「中国人というのは、かなり図々しいというか恥知らずというか、日本人とはまるで違うんだな。あいつら隅におけないよな。下手すりゃ、尻の毛まで抜かれる」 手酌でビールを注いでグイと飲み干す勝に、北村も空のグラスを突き出した。 「おれにも注いでくれ」 「ほいきた」 勝がビールを注ぎ終わるのを待って、北村が「おい、イガちゃんよ」と、ゆっくりと言った。 北村は昔から五十嵐勝をイガちゃんと呼ぶ。 「中国人というのはかなり図々しいとか恥知らずだと、いま言ったな」 「ああ、言った、言った」と勝。 「八百屋に野菜を買いに来て、安くしてくれと言うのが、図々しいの恥知らずのと言われるようなことかい?」 「え?」t訊き返しながらも、北村のいつもと少し違う口調に、 勝は気がついた。 「イガちゃんも苦労人で、世間を知っているようだが、案外だ。 見掛け倒しの西瓜だね」 北村はグイとグラスを呷った。 見掛け倒しの西瓜とは、とんだつっかかりようである。 「中国人というのは、誰もがみんな、自分の気持ちをハッキリ言うんだ。自分の主張というものを隠したり抑えたりしないんだよ」 「そ・・・・そんなことは、知ってるよ」 今日の北村徳夫はちょっとトンがっている。中国人留学生のことが、 そんなに気に障ったのか、なぜかな?と勝は合点がいかない。 「だいたいね、日本みたいなチマチマした島国にへばりついていると、中国人の気質や生き方なんて分からんかもしれないがね」 どうも風向きがおかしい。北村はまたグイと空のグラスを突き出す。 いつもの柔和そのものの北村とは態度がまるで違う。 何となく勝は気圧されて素直にビールを注ぐ。 「いきなりぶしつけな質問をするが、中国の正式の国名を知っているかい、イガちゃん」 「そりゃま・・・・・」 「言ってみてくれないか」 「エーと、中華・・・・・と」 「その先!」 「ちゅ・・・・ちゅ、中華人民・・・・共和国」 北村は大きく頷くとおもむろに言った。 「中華人民共和国」(ゾンホワレンミンゴンフォグオ) 「へえ!」 正直、勝は北村の中国語の発音の絶妙さに目を瞠った。 と言っても、中国語に特に詳しいわけではない。 シェシェとニイハオくらいしか知らない。 ただそのなめらかな、そして地震たっぷりの喋り方に、本格的な、 匂いを感じっとったにすぎない。 「国の歴史は4千年。人口ざっと12億人。国土面積は日本の 約26倍の960万平方キロメートル。世界で第3位の大国だ」 「はあ」 勝は妙にかしこまっていた。 そのへんのデーターはチンプンカンプンだ。 「中国は元来、多民族国家なんだ。56種類の民族がそれぞれに独自の言葉を持っている。モンゴル族はモンゴル語を、チベット族はチベット語を、という具合だね。聞いているかい、イガちゃん」 「聞いてるよ」 「中国の全人口の九割方がいわゆる漢民族なんだね」 勝は、こんな北村を見たことがなかったな、とついまじまじと顔を見直した。 居酒屋一筋に40年と自称しているが、そのかわりに北村は上品な 顔をしている。 このところめっきり白髪がふえ、眉も白っぽくなっているが、細めの目、すっきり通った鼻筋、やや薄めの整った唇の形…全体の造作は、どこやらの大学の文学部の教授と言えないこともない雰囲気だ。 続く