第三章 別離の記憶 ①1948年(昭和23年) 五十嵐勝は父親を知らない。 母親のきよのは、勝が幼いときに父親の三郎は戦災で亡くなったと、 それとなく話してはくれていた。 が、あまり詳しいことには触れたがらなかった。 勝が福島県平市(現いわき市)の村立赤井第一小学校の1年生に なったのは、昭和23年(1948年)だった。 日本全体がまだ敗戦の痛手と傷痕に打ちひしがれていた。 前年22年の11月一等賞金百万円の宝くじが発表されて、 福島の田舎でも寄るとさわると「百万円」が話題に出た。 何しろ「金鵄」というタバコが六円。「朝日」が十五円という 値段だから、百万円はユメのまたユメといった金額だった。 その一方では、1日2合5勺という主食の配給はどんどん遅れ 北海道では90日、全国平均でも20日間の遅配と言う食糧危機も あった。 昭和21年「お米を世話する」と言って女性をだます連続婦女暴行 事件で小平義雄という犯人が捕まっている。 また、明けて昭和22年には、東京地方裁判所の山口という判事が 立場上、ヤミ米を買わずという信念を貫き、ついに栄養失調死を している。 そういう状況を見捨てられないとして、当局は皇居のお濠の釣りを解禁したりもした。 釣った魚を食べてよろしいというわけだ。 また、この年昭和23年の2月の終わりか3月のはじめ、名古屋の 一青年が。「いのち5万円で売ります」と広告して、世間の人々を 仰天させている。 いや、1月にはもらい児殺しの寿産院事件とか、帝銀椎名町支店の 青酸カリ大量殺人事件などが起こって、社会全体が血なまぐさく 騒然としていた。 戦争という名の殺し合いは何とかしめくくられたが、過密な都会での生き残り競争は激しさを加えるばかりだった。 が、炭鉱の町として栄えてきた平市一帯には、それでもまだすべてが、極限状態に達している都会とは異なって、人の心にも食糧などにも多少のゆとりがのこされていた。 とは言っても、男の働き手のいない五十嵐一家にとっては、 もともと暮らしはラクではない。 足腰の弱った祖母と、ひとりっ子とはいえまだ幼い勝の面倒を見る きよのは、まさに孤軍奮闘の毎日だった。 きよのは、少し前まで小学校の代用教員をつとめていたが、 その薄給では暮らしが成り立たず、住宅付きという条件の大泉製紙の工場の賄婦に転職した。 磐越東線にはちっぽけなSLが走っていた。 その磐越東線の始発駅の平から一つ目の駅が赤井だ。 製紙工場はレンガ造りで、木造の粗末な赤井駅舎のまん前に建っていた。 赤黒く、くすんだ工場の端に、ずんぐりとした、これもレンガ造りの煙突が立っていて、その脇に古びた木造の小屋があった。 屋根はトタン葺きだった。 勝たち、3人が住む家なのだが、駅の方から眺めると、あたかも 工場の便所にしか見えない。 事実、悪童たちは聞こえよがしに「勝ンとこは工場の便所だ」と 声高に言いたてた。 住所は、福島県石城郡赤井村大字赤井宇田田中五番地。 誰が何と言おうと、勝にとっては母親と祖母と水入らずで暮らせる 唯一の我が家だった。 工場の従業員はざっと三十人くらいだったが、寂しいのが大の苦手だった勝にとっては、いつも人が動いている工場の敷地内に暮らせることは救いになった。 続く