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        「焚券市義」から読む中国ビジネス

        青山英明

         

         

         

        富、名声、公益行為のあいだ

        現代のビジネスにおいて、企業や個人は利益だけで評価されるわけではない。売上、時価総額、資産規模、投資回収といった数値は、もちろん大きな意味を持つ。しかし、それだけでは企業や個人の社会的な位置づけは安定しにくい。とりわけ中国のように、市場、国家、社会世論、消費者感情が複雑に絡み合う環境では、富の蓄積と名声の形成は、しばしば別の論理で動いている。

        ここでいう名声とは、単なる虚名や知名度ではない。短期的な話題性や表面的な人気は、時に大きな集客効果を持つ。しかし、それが実体を伴わなければ、信用の基盤にはなりにくい。むしろ問われるのは、名声を裏づける真価である。企業であれば、商品やサービスの品質、社会への貢献、顧客との関係、危機時の対応などが名声の裏づけとなる。個人であれば、能力、誠実さ、継続的な行動、周囲との信頼関係がそれに当たる。

        この観点から見ると、古典における「義」の概念は、現代ビジネスを考えるうえでも興味深い補助線となる。利益を得ることと、義を蓄積することは、常に対立するわけではない。短期的には利益を放棄するように見える行動が、長期的には信用、支持、評判、社会的な安全域を形成することがある。反対に、短期的な収益を最大化する行動が、長期的な信用を損なう場合もある。

        前稿で扱った「画蛇添足」は、勝ち筋が見えた後に余計な一手を加え、かえって得られるはずのものを失う話であった。これに対して、「焚券市義」は、目先の利益をあえて手放すことで、長期的な信用を得る話である。両者は対照的である。前者は、加えすぎることで失う。後者は、捨てることで得る。この対比を置くと、中国ビジネスにおける利益、名声、信用の関係が見えやすくなる。

         

        策士が買った「義」

        「焚券市義」の中心人物は、戦国四公子の一人である孟嘗君、田文である。孟嘗君は斉の貴族であり、多くの食客を抱えた人物として知られる。その食客の一人に、馮諼という人物がいた。孟嘗君は薛の地を領有し、領民に貸付を行っていたが、返済は滞っていた。そこで、借金の取り立てに行ける者を募った。馮諼がこれを引き受け、出発前に「取り立てた金で何を買って帰りましょうか」と尋ねた。孟嘗君は「わが家に少ないものを買ってくればよい」と答えた。

        馮諼は薛に着くと、領民を集め、借用証書を確認したうえで、孟嘗君の命令と称して借用書を焼き捨てた。領民たちは大いに喜び、孟嘗君を称えた。馮諼が帰ると、孟嘗君は何を買ってきたのかと問う。馮諼は「この家に足りない義を買ってまいりました」と答えた。孟嘗君はその場では納得したように振る舞ったものの、内心では不快であった。

        この時点だけを見ると、馮諼の行動は無断の債権放棄であり、経済合理性に反する。回収できる可能性のある貸付金を失わせたからである。しかし、後に孟嘗君は斉王から疎まれ、宰相を罷免され、領地の薛へ戻ることになる。その際、薛の住民は老人や子どもを連れて、百里も手前まで孟嘗君を迎えに来た。そこで孟嘗君は、馮諼がかつて「義を買った」意味を初めて理解した。

        この逸話が示しているのは、単なる善行の美談ではない。ここで浮かび上がるのは、短期的な金銭価値と長期的な社会的信用との交換である。馮諼は、回収困難な債権を焼くことで、孟嘗君に対する領民の支持を形成した。債権は帳簿上の資産であったが、領民の支持は危機時に機能する政治的・社会的資産となった。言い換えれば、馮諼は金銭を失わせたのではなく、流動性の低い債権を、危機時に効く名声と支持に変換したと見ることができる。

        この視点は、現代企業の公益活動や寄付行為を考えるうえでも手がかりとなる。企業が慈善活動を行うとき、それは単なる道徳的行為として語られやすい。一方で、すべてを冷淡な宣伝活動として見ると、別の側面を見落としやすい。企業の公益活動は、無駄遣いにもなりうるし、長期的な信用形成への先行投資にもなりうる。両者の違いは、支出そのものではなく、それが企業の価値、顧客との関係、社会的文脈とどのように接続しているかにある。

        BATの公益活動と社会的位置づけ

        中国の大手IT企業を指すBAT、すなわち百度、アリババ、テンセントは、その典型例として考えられる。BATとは、中国のインターネット産業を代表する百度、アリババ、テンセントの頭文字を取った呼称である。百度は検索とAIを中心に発展し、アリババは電子商取引、決済、物流、クラウドなどに展開し、テンセントはQQ、微信、ゲーム、コンテンツ、投資を通じて巨大なエコシステムを築いた。これらの企業は、いずれも単なる民間企業というだけではなく、中国社会の情報流通、消費行動、決済、娯楽、コミュニケーションの基盤に深く入り込んでいる。

        BATの公益活動は、近年になって急に現れたものではない。テンセントは2006年9月に公益慈善基金会の設立を準備し、2007年6月に民政部で登録された。百度も2010年8月に公益基金会を発起し、2011年1月に北京市民政局の認可を受けた。アリババ公益基金会は2011年12月に成立している。つまり、BATの公益活動は、2000年代後半から2010年代初頭にかけて、中国のインターネット企業が社会インフラ化していく過程で制度化されていったものと見ることができる。

        そのような企業が公益活動を行う背景には、複数の意味が重なっている。第一に、巨大企業としての社会的責任がある。社会インフラに近い存在となった企業は、単に利益を上げるだけでは社会的支持を維持しにくい。第二に、政府や社会との関係がある。中国において、民間大企業は国家や地方政府の政策環境から完全に独立して存在しているわけではない。公益活動は、企業が社会秩序や政策目標と整合的に行動していることを示すシグナルにもなる。第三に、消費者との関係がある。企業の印象は、商品やサービスの利便性だけでなく、危機時や災害時の行動によっても形成される。

        この点で、BATの公益活動は、単なる寄付ではなく、企業の社会的位置づけを調整する行動として読むことができる。もちろん、すべての公益活動が成功するわけではない。過剰に宣伝色が強ければ、逆に反感を生む。社会課題と企業の中核事業に接点がなければ、一過性の支出に終わりやすい。しかし、企業の事業領域、社会課題、顧客接点、政策環境が重なった場合、公益活動は信用形成の一部として機能する。

        「切糕王子」にみる商品の再文脈化

        より小さな企業や個人起業家の例として、ウイグル族の若手起業家、アディリ・マイマイティトゥルの事例も興味深い。彼はインターネット上で「切糕王子」(ウィグル餅プリンス)と呼ばれた人物である。切糕とは、新疆などで見られるナッツや砂糖、蜂蜜などを固めた菓子である。中国では一時期、観光地などで高額販売や強引な販売の印象と結びつき、複雑な社会的イメージを帯びた商品でもあった。

        アディリは新疆カシュガル地区の出身で、大学在学中の2012年末、仲間とともに切糕を販売するネット店舗を始めた。2014年8月、雲南省で地震が発生すると、彼は共同経営者らとともに被災地へ5トンの切糕を寄付した。中国メディアでは、災害時に保存性の高い新疆菓子を被災者へ届けた若手起業家として報じられ、この行動が「切糕王子」という呼称とブランドの形成を後押しした。

        この事例も、単純な善行としてだけ見ると一面的になる。むしろ注目されるのは、社会的にやや曖昧なイメージを持っていた商品を、寄付と公益行為によって再文脈化した点である。切糕は、ある時期には高額販売の象徴として扱われることがあった。しかし、災害時に無償で提供されることで、同じ商品が「支援」「故郷の味」「民族的特色」「若者の起業」の文脈に置き直された。商品そのものが変わったというより、商品を取り巻く意味が変わった。

        ここに、公益活動とブランド形成の接点がある。寄付は、単に金銭や物資を手放す行為ではない。それが適切な文脈に置かれると、企業や個人の印象を転換し、社会的信用を形成する契機となる。馮諼が債権を焼いて「義」を買ったように、アディリは切糕を寄付することで、商品と自身のブランドを新しい文脈に置き直したと見ることができる。

        このとき問われるのは、「お金」と「いい人であること」のどちらが大事か、という単純な二者択一ではない。短期的な現金収入は、企業や個人の生存にとって欠かせない。一方で、信用、評判、支持、社会的な好意も、長期的には資産として機能する。問題は、金銭と名声を対立させることではなく、どの局面で何を優先し、どのようなかたちで両者を接続するかにある。

        無償労働と先行投資の境界

        ここで、統合マーケティングコミュニケーション、すなわちIMCの考え方が一つの理論的手がかりとなる。IMCは、外部環境と消費者データを踏まえ、ターゲットに対してブランドを統合的なメッセージで接触させ、納得してもらう考え方である。広告、広報、販促、SNS、イベント、公益活動などをばらばらに行うのではなく、ブランドの中核的な価値と一貫したメッセージとして設計する点に特徴がある。

        公益活動や寄付行為も、IMCの視点から見れば、単独の美談ではなく、ブランドと社会の接点を形成するコミュニケーションとして位置づけられる。企業が何を支援するのか。どのような方法で支援するのか。誰に向けて語るのか。支援の内容は、自社の事業や理念と接続しているのか。こうした点が曖昧な場合、寄付は一時的な話題にとどまりやすい。反対に、企業理念、事業内容、社会課題、顧客感情が接続している場合、公益活動はブランドの信頼を補強する。

        この観点から見ると、馮諼の「焚券市義」は、古代における統合的な信用形成の行動として読むこともできる。馮諼は、孟嘗君という存在に不足していたものを見抜いた。孟嘗君の家には、富、地位、人材はあった。しかし、領民からの深い支持という意味での「義」は十分ではなかった。そこで馮諼は、債権回収という短期的な金銭行動を放棄し、領民の心理に直接触れる行動を取った。これは、孟嘗君の社会的メッセージを「取り立てる領主」から「民を救う領主」へ転換した行為だった。

        もちろん、この行動は現代企業倫理の観点からそのまま肯定できるものではない。馮諼は孟嘗君の命令と偽って借用書を焼いており、権限の問題を含んでいる。古典を現代に用いる際には、この点への留保が欠かせない。ただし、ここで読み取りたいのは、法的・制度的な模倣ではなく、短期的な収益と長期的な信頼の交換という構造である。

        現代の企業や個人も、似たような問いに直面している。たとえば、会社内で無償の追加労働をすることはよいのか。表面的には、対価を受けずに労働を提供する行為である。短期的には会社への貢献に見える場合もある。しかし、それが単に本人の時間を消耗し、組織の責任を曖昧にするだけであれば、本人にとっても組織にとっても健全とは言いにくい。一方で、危機時や学習段階において、自分の成長、信頼形成、将来の機会と接続する行動であれば、単なる無償労働とは異なる意味を持つこともある。

        ここでも、問題は「無料で働くことが良いか悪いか」ではない。むしろ、それが無駄遣いなのか、先行投資なのかを見極める視点が問われる。自分の時間、労力、資源をどこに投じるのか。それは誰に届くのか。どのような信用に変換されるのか。将来の機会や関係性に接続するのか。あるいは、単に消費されるだけで終わるのか。この違いを見誤ると、善意も努力も、長期的な資産になりにくい。

        富、名声、義をどう接続するか

        「焚券市義」が現代に与える補助線は、ここにある。富と名声、金銭と義、利益と公益は、単純な対立関係ではない。短期的な利益を追うだけでは、危機時に支えてくれる社会的基盤を失うことがある。反対に、無計画な善行や寄付は、資源を消耗させるだけで終わることもある。したがって問われるのは、どの資源を、どのタイミングで、どの相手に、どの文脈で投じるかという判断である。

        中国ビジネスにおいて、この問いはとくに見落としにくい。中国企業は、市場競争だけでなく、政策環境、社会世論、プラットフォーム上の評判、地域社会との関係のなかで評価される。企業の公益活動は、単なる慈善ではなく、企業が社会の中でどのように位置づけられるかを左右する。とくに巨大プラットフォーム企業や知名度の高い起業家にとって、富の蓄積だけでは社会的正当性を維持しにくい局面がある。

        その意味で、BATの公益活動も、「切糕王子」の寄付行為も、異なる規模で同じ構造を持っている。前者は巨大企業が社会的責任と政策環境のなかで信用を調整する行動であり、後者は若手起業家が商品イメージと個人ブランドを再構成する行動である。いずれも、金銭や物資の支出を通じて、社会的な意味を獲得しようとする動きとして読むことができる。

        古典は、現代の答えを直接与えるものではない。しかし、現代の企業行動や個人のキャリア形成を考える際、行動の背後にある構造を見えやすくしてくれる。「焚券市義」は、金銭を失って義を得るという単純な美談ではない。むしろ、短期的な収益と長期的な信用の交換、帳簿上の資産と社会的資産の変換、富と名声の接続を考えるための古いが有効な事例である。

        現代のビジネス環境では、利益を出すことと社会的評価を得ることが、ますます切り離しにくくなっている。企業も個人も、何を得るかだけでなく、何を手放すかによって評価される。金銭を得ることは生存の基盤であり、名声を得ることは関係性の基盤となる。どちらか一方を絶対化するのではなく、両者をどのように接続するかが、現代の企業行動と個人行動に共通する課題として浮かび上がる。

        馮諼が焼いたのは、単なる借用書ではなかった。それは、短期的な債権を長期的な支持へ変えるための象徴的な行為だった。現代企業の公益活動や個人の社会的行動も、同じ問いの前に立っている。無駄遣いか、先行投資か。虚名か、真価に裏づけられた名声か。単なる善行か、社会的信用の形成か。

        「焚券市義」は、この見極めのための補助線となりうる。富を否定せず、名声を過信せず、義を抽象的な美徳だけに閉じ込めないこと。その視点から見れば、古典の一節は、現代中国ビジネスにおける公益、ブランド、信用形成を読み解くための実践的なケーススタディとして、なお読み直す余地を持っている。

         

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        • ACデザイン
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