2022年5月6日
話のタネ ー ウクライナ情勢と言葉選び
元国連事務次長・赤坂清隆
ウクライナ情勢は、ロシアの侵攻が始まってからもう2ヶ月半にもなりますが、停戦が実現しないまま、戦闘状態が続いています。
メディアでは、戦争、侵攻、侵略、国連憲章違反、戦争犯罪、人道犯罪、ジェノサイドなどの言葉が、連日飛び交っています。
一つ一つの言葉の意味するところを吟味しつつ正確に話すことは
私の得意とするところではないのですが、今回の「話のタネ」は、このような言葉選びを取り上げてみたいと思います。
なお、ジェノサイドについては、長くなりますので、稿を改めて
次回の「話のタネ」まわしにしたいと思います。
1,戦争
まず、これまでの状況を、「ウクライナ戦争」と呼んでよいので
しょうか?「戦争」とは「軍隊と軍隊とが武力を行使して争うこと。特に、国家間の全面的な争い」(明鏡国語辞典)とありますから、
確かに今ウクライナで起きていることは戦争ですね。伝統的には、宣戦布告に始まり、講和によって終わるのが戦争だったのですが、現在では、このような形式には重きを置かれなくなっています。
ですから、宣戦布告がなされていない今回のウクライナ紛争についても、実質的な戦争状態がありますから、「ウクライナ戦争」と呼んでいいのでしょうし、メディアも、多くはそういう呼び方をしています。ただ、私には、どうしても、今回の事態を「ウクライナ戦争」と呼ぶことに、のどに魚の骨が刺さっているような違和感があるのです。
まず、プーチンは、自ら「戦争」を仕掛けたにもかかわらず、
意図的に「戦争」という言葉を使わずに、2月24日のウクライナへの攻撃開始は、「特別軍事作戦」と呼びました。プーチン政権は、「戦争」という言葉の使用を禁じてきたとの報道があります。「戦争」という言葉を使うと、国際法上、あるいは国内法上、様々な課題が生じてくることが考えられるからでしょう。日本も、1930年代、中国での武力攻撃を行った際に、「戦争」という言葉を避け、
「満州事変」、「上海事変」、「支那事変」というように、「事変」と
いう言葉を使いましたね。
第一次世界大戦の後に作られ、1929年に発効した「不戦条約」は、第1条で国際紛争解決のため戦争に訴えることを禁止し、
国家の政策の手段としての戦争を放棄することを宣言しています。日本も、ソ連もこの条約を批准しています。また、国連憲章第2条は、すべての加盟国に、武力による威嚇または武力の行使を禁じています。
「戦争」という言葉を使うと、このような国際法に違反しないことを説明する必要が出てきます。
ですから、プーチンは、今回のウクライナへの「特別軍事作戦」は、独立を宣言したウクライナ東部2州からの要請に基づく、国連憲章第51条を根拠とする「集団的自衛権の行使」だと説明しています。他方、ウクライナにしてみれば、ロシアからの武力攻撃を受けて、国連憲章が認める自衛権行使のための措置をとっているのであって、好んでロシアと「戦争」をしているわけではないということでしょう。
プーチンのこれまでのウクライナ東部2州への「特別軍事作戦」に関する説明は、西側諸国ではまったく受けいられておらず、
一顧だにされていないことはご存じのとおりです。
西側メディアでは、戦争という言葉を使うときには、
「ロシアのウクライナへの戦争」(Russian war on Ukraine)あるいは、「ウクライナでの戦争」(War in Ukraine)というような言い方をする向きが多い気がします。また、バイデン大統領は当初、ロシアに
よる「ウクライナへの攻撃」(attack on Ukraine)という言葉を、
岸田首相は、「ロシアによるウクライナ侵攻」(The invasion of Ukraine by Russian forces)という表現を使いましたね。
その後、日本の月刊雑誌などの記事では、「ウクライナ戦争」という表現が使われている例が多くありますが、新聞紙上では、これまでのところ、戦争という表現よりも、「ロシアのウクライナ侵攻」、
「ウクライナショック」、「ウクライナ危機」といった
「戦争」に代わる表現のほうが、多いように見受けられます。
プーチンは、5月9日のロシアの戦勝記念日(旧ソ連がナチスドイツに勝利した戦勝記念日)に、正式に「戦争」を宣言し、大規模な動員に動くのではないかとメディアは取りざたしています。
5月3日付朝日新聞は、「特別軍事作戦」では徴兵による兵士を表立って戦場に投入できず、職業軍人に頼っていたが、「戦争」に踏み切れば、国民を巻き込んだ動員が可能となる、と報じています。
ロシアが「戦争」という言葉を使うとしたら、ロシア自体がウクライナからの攻撃にさらされて、大規模な武力行使を行わざるを得なくなったというような説明をするのでしょうか?いずれにせよ、
ロシアが「戦争」を宣言したら、今回の事態は名実ともに「戦争」と言えるようになるでしょう。
2,侵攻と侵略
「侵攻」(invasion)と「侵略」(aggression)もお互いに似たような、ややこしい言葉ですね。一般的な解釈としては、「侵攻」が、他国に侵入し、攻撃することであるのに対し、「侵略」は、他国に侵入してその土地や財産を略奪するというものですね。 後者の「侵略」(aggression)については、1974年に国連総会で採択された侵略の定義に関する決議というのがあります。これによると、「侵略」とは、「国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に
対する、または国際連合の憲章と両立しない方法による武力の行使」と定義されています。国際刑事裁判所の基本法であるローマ規程も同様の定義を定めており、「侵略犯罪」をジェノサイドなどと共に
処罰の対象にしています。
なお、安倍元首相は、2013年に国会で、「侵略という定義は
学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との間で、どちらから見るかで違う」と述べて物議をかもしましたが、外務省は、侵略の定義に関する上述の国連決議については、「国連憲章上、侵略行為の存在を決定する権限は安保理にあり、今回の侵略の定義は、主として安保理がその決定を行うに際して用いるガイドラインとして
作成されたもの」と解釈して、「従って、ある国の行為が侵略であるか否かがこの定義によりただちに決定されるものではない」との
立場をとっています。安倍元首相の発言は、中国との歴史論争に
絡む文脈の下で行われたものでありましたが、今回のウクライナ
情勢に関する日本政府の立場は、ロシアの武力攻撃は、
「侵攻」、「侵略」であると、気持ちよく、はっきりと言いきって
います。3月2日の国連総会の緊急特別会合の決議でも、ロシアの武力行使を「侵略」と表現していますが、ロシアはこれを認めて
おらず、国際法上「侵略」の裁定が行われたと言えるかどうか。
安保理に決めてもらおうにも、拒否権を持ったロシアがいますから、決められません。つまるところ、今回のロシアの武力行使が「侵略」であるか否かは、国際刑事裁判所の判断に任せるしかないのでしょうか。
3,国連憲章違反
ロシアのウクライナ侵攻に対するグテレス国連事務総長の反応も素早かったですね。グテレス国連事務総長は,2月24日に、ロシアによるウクライナ東部のドネツクとハンスクのいわゆる「独立」を承認したロシアの決定とその後の動きは、「ウクライナの領土保全と主権の侵害であり、国連憲章の原則に違反している(inconsistent with)」との声明を出しました。国連憲章の原則に照らして、「黒」であるとはっきり言い切ったわけです。
従来の例に従えば、ロシアは国連憲章に基づいた「集団的自衛権」行使のための「特別の軍事作戦」と主張しているわけですから、
国連法務部からのアドバイスを受けて、国連憲章に照らして白か黒かを明確にせずに、「ロシアのウクライナに対する武力行使は、国連憲章に合致しない(not consistent with)」という立場をとることも
考えられました。つまり、「白ではない」という言い方です。
白ではないということは、黒か、または灰色という解釈が成り立ちます。他方、今回のように「国連憲章に違反する」と言ってしまえば、「黒です」ということですから、灰色解釈の余地がまったくなくなります。灰色解釈というのは、解釈次第では、合法という見方も可能という余地を残したもののことです。これは単なる言葉の遊びのように見えて、実は、両者には、きわめて重大な違いがあるのです。
この言葉の選び方は、2003年のイラク戦争をめぐっての当時のコフィー・アナン国連事務総長の発言で大きな問題になりました。それまでは、米国などの有志連合軍のイラクへの軍事介入は、
国連の公式見解としては「白ではない」(すなわち、憲章に合致するという灰色解釈もありうる)とのことであったのに、
BBCのインタビューで、記者からしつこく、「では国連憲章違反か?(黒か)」と聞かれて、コフィー・アナンは「そうだ」と答えてしまったのです。黒だと認めたのですから、もう灰色解釈はあり得ません。すぐに、「国連事務総長がイラク戦争は国連憲章違反と認めた」というニュースが世界中をかけめぐりました。
これには、アメリカ政府が怒り出して、米国と国連との関係が一挙に冷え込み、コフィー・アナン事務総長は、米国から蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われる存在と化しました。因みに、コフィー・アナンの後任のバン・キムン国連事務総長にも、記者から「あのイラク戦争は国連憲章違反だったと認めるのか?」という質問がしつこくつきまといました。バンさんは、「ぬるぬるウナギ」のあだ名通り、この質問には答えず、はぐらかして逃げ回りました。
この「灰色措置」というのは、もともとガット(現WTO,世界貿易機関)で、日本が米国や欧州向けに取った輸出自主規制について、ガット条文上の整合性に疑念のあるこれらの措置の解釈を
「灰色」として扱ったことに由来しています。日本は。
「白ではないかもしれないが、黒でもない」という言い訳をしたのですが、欧州は、もっと開き直って、これは「灰色措置だ」と堂々とその措置の正当性、重要性を訴えました。「この世の中は白黒で
判断できるものではなく、白とも黒ともつきかねる灰色の世界が延々と広がっている」と、ガット理事会で名演説をぶった当時の
トラン・バン・テインEC大使の発言を今もよく覚えています。
この人生観、私など大いに共鳴しました。コロナ禍など最たるものですが、考えてみると身の回りに、白黒がつかない、灰色の状態の出来事がなんと多いことか!
しかし、今回のロシアによるウクライナ侵略については、西側諸国は、明確に国際法違反、国連憲章に照らして「黒である」との
判断を下しましたし、141カ国の賛成を得た国連総会の緊急特別会合の決議でも、「国連憲章違反のウクライナに対する侵略を
最も強い言葉で遺憾とする」との文言が入っていますから、
灰色解釈の余地はありません。ただし、ロシアは、「白である」との立場をとり続けるでしょうし、法的拘束力を持つ安保理の決定は、ロシアの拒否権行使のため不可能です。とすると、結局のところ、国際社会の大多数は国連憲章違反と認めているものの、この問題は、誰も最終的な決定ができずに、黒か白かの対立を残したまま、
うやむやで終わってしまうのでしょうか。
4,戦争犯罪、人道に反する罪
「戦争犯罪」「人道に反する罪」という言葉もよく使われています。バイデン大統領は、「プーチンは戦争犯罪人だ」と公の場で発言しましたし、岸田首相も、5月5日、訪問先のロンドンで、ロシア軍の民間人殺害は「戦争犯罪だ」と言い切ったと、BBCなどが大きく伝えました。
戦争犯罪というのは戦争法規の違反で、一般人の殺害、拷問、
虐待、捕虜の殺害、都市町村の恣意的な破壊などが挙げられます
(国際刑事裁判所ローマ規程の第8条)。また、「人道に反する罪」というのは、文民に対する攻撃で、広範またはは組織的な犯罪で、殺人、奴隷化、拷問、レイプなどが含まれます
(同ローマ規程第7条)。両者の間の重複の問題などについては、
法律家の方々にお任せしたほうがよさそうです。
今回、ウクライナにおいて、ロシア軍による両方の犯罪があったという訴えを受けて、4月半ばに首都キーウ近郊のブチャなどを視察した国際刑事裁判所のカーン主任検察官は、証拠を収集、分析し、それに基づき判断を下すとし、それが裁判官によって検証されると述べています。
カーン氏は、「ウクライナは犯罪現場だ」、「ここに来たのはICCの
管轄内で犯罪が行われたと信じるに足る合理的な証拠があるからだ」とツイートで説明していると報じられています。
グテレス国連事務総長は、連日ステートメントを繰り出し、
ロシアの侵攻を非難すると同時に、人道支援の強化に力を注いできました。メディアにもしょっちゅう顔を出していますし、
よく頑張っていると思います。4月末には、ロシアとウクライナを直接訪問し、プーチン、ゼレンスキー各大統領との個別会談にも
臨みました。プーチン大統領との会談後、国連は、人道支援面で、民間人の退避について国連と赤十字国際委員会が関与することに
プーチンが同意したと発表しました。
しかし、「人道的停戦については、提案すらできず、ウクライナ危機における国連の役割の限界もあらわになった」(4月28日付朝日新聞デジタル)との厳しい報道もなされています。
当初からあまりにウクライナおよび西側寄りの立場を明確にしすぎたために、ロシアの反感を買い、中立的な立場からの仲介、仲裁を行いうる余地を狭めてしまったとは言えないでしょうか?さりとて、ロシアの非道な武力行使に対して、少しでも理解を示すことなど
到底できないですね。難しいですね。ここら辺が、国連事務総長は、「世界で最も不可能な仕事」と言われるゆえんなのではないかと思います。
いろいろと御託を並べて恐縮です。分かりにくいことが多く、知恵が足りません。ウクライナのニュースに、日々心を痛めておられる方も多いと思います。どうぞ、皆さんからのご叱正、コメントをお願いします。それでは、今回の「話のタネ」は、ここらへんで。次回は「ジェノサイド」を取り上げてみたいと思いますので、
乞うご期待。(了)