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        道上の独り言

        「幼年時代の旅行 第6話 さようなら香港、初めての外国。」

        ________________________________________

        香港では何人かの日本人が降りたようだが、降りた人数は少なく、

        乗ってくる中国人の数の方が多かった。その香港出航後、異様な光景を目にした。

        全身黒ずくめの女性が付き添いと思われる女性の人と一緒に2等のデッキから香港を眺めていた。まるで過去と別れを告げるかのように。

        背丈は150cmくらいだろうか。少しスリットの入ったロングスカートから足下が見える。ヒールのある靴を履いているがその足は纏足※(てんそく)だった。

        その女性は誰も寄せ付けない雰囲気を放っていた。その後二度と姿を見せなかったが、その不気味さはいつまでも記憶に残る光景だった。

        (※纏足=てんそく。女性の足を緊縛して成長を止め、小足にする施術。 )

         

        僕の乗った船には無かったが、当時は一般の船には4等船室もあった。

        当時フランスまで飛行機で行くと運賃は約24万円だった。船の場合は3等船室が13万5千円、2等船室が22万から30万円、1等船室は50万円以上だった。僕の住んでいた愛媛県の八幡浜では50万円あれば立派な家が買えた。大卒の初任給が1万2千円位の時代だった。今から考えると飛行機代はどんどん安くなり逆に船賃はどんどん高くなっていった。

        だから食事の出ない4等とか貨物船旅行というのもあった。

        基本的には貨物船の場合6~7万円だったが、船数が少なく中には船内で働きながらなら無料で乗せてくれる場合もあった。しかしこれは密航に近かった。簡単にビザがおりない時代なのでパスポートさえなかなか手に出来なかった。そんな状況で貨物船で働きながら行くという事は手続き無しで行くのに近かった。

         

        このラオス号はフランスの船だから1等、2等、3等の区別はいやらしいくらいはっきりとしていた。ただ、たまに全客のパーテイーとか催し物があった。まずは仮装行列があり、我々仲間は「貫一お宮」をやりました。お宮が途中転げて鬘が取れるという演出を入れたが意味の分からない外国人には受けが悪かった。

         

        ひときわ目立っていたのが船長!白い制服で格好が良いと皆は言う。ガキの僕には何が格好良いのか分からない。ただでっかくてすらっとしているだけだ。姉にダンスを申し込んできた。だが僕が阻んだ。外人に姉を取られてはならない!

        僕は非常にやきもち焼きだった。足が長い?バランスが悪い!彫が深い?フランケンシュタインも彫が深い!

         

        一夜明けて昼食後、プールの上に直径40cm位の丸太を置き、丸太に跨った二人が向かい合って枕で相手をプールへ落とすというゲームをやった。1等も2等も3等も全員参加のゲームだ。

        最初はフランス人の子供達がやっていた。その勝敗が決まった時、僕にやらないかとフランス人の船員が勧めた。最初断ったが例のフランス語の先生中島さんが、雄峰君やったら、と言うのでやることになった。

         

        相手はフランス人の2~3才歳上の男の子だった。

        相手が僕の頭に枕で一撃を食らわした。あたまに来たので思い切り相手の肩を狙って横殴りをしたが空振りをして落ちそうになった。慌ててしっかり丸太にしがみつく。あせった。先ほどの戦いで落ちた坊やの水しぶきで丸太が濡れているので滑りやすい。相手は僕のしがみついているその腕や頭に枕を打ちつけた。何度も何度も。何十人ものフランス人の声援が早くあのガキを落とせと言っているように聞こえる。凄い掛け声だった。日本人の掛け声は聞こえなかった。

         

        僕は無我夢中で丸太にしがみついていた。ある程度時間が経ったので結局引き分けということになった。 僕は恥ずかしいやら格好悪いやら・・・!どうして良いか分からなかった。最悪の一日だった。

         

        僕達の戦いに気を良くしたのか次に大人のフランス人男性二人が跨った。

        二人とも最初から枕などそっちのけで丸太にしがみついたまま相手をくすぐる作戦に出た。フランス語でギーリ、ギーリ!(日本語だと「こちょこちょ」という感じ)などと言っていて相手に迫る。これが受けた。おおいに受けた。皆で爆笑!

         

        僕は必死でやったのに結局あんな漫才もどきの前座だったのかと結構ムッとしていたところに、中島さんが来て「雄峰君は諦めなかった。負けるかと思ったがさすが日本人!大和魂を見た!」などと言っていた。もし本当にそう思っていたのならもっと大声で応援してくれても良かったのに。僕は一人でフランス人と戦っていたように感じていたのに!これが日本人的遠慮なのか、それとも3等の遠慮なのか・・・?

        とはいうもののそれ以来僕は更に人気者になった。

         

        船はベトナムのサイゴン(現ホーチミン)に向かっている。

        海からサイゴン川に入った頃、一艘の小船がラオス号に横づけされた。その小船から降りて来たベトナム人とラオス号船長が交代した。きっと現地の人でないとわからない浅瀬などがあるのだろう。それともべトコンでも飛び出してくるのだろうか?

        そう、実は当時ベトナム戦争の真っ最中だった!

        40kgの装備を持って戦うアメリカ兵と小袋一杯のお米を持って戦うべトコン。

        さてどちらが強いのでしょう?歴史上、南北の戦争で南が勝った事は一度も無い。

        冬将軍ならぬ北将軍だ!中国・ロシア対アメリカの代理戦争?

        そんな怖いところへ向かって我々の船は進む。

        地図ではサイゴンは海沿いだと思っていたが、川は曲がりくねっていてなかなか港に到着しない。到着まで半日以上1日近く、相当長くかかった事を覚えている。

         


        【 道上 雄峰 】

        幼年時代フランス・ボルドーで育つ。

        当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

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