「フランスでの生活 第21話 パリでの毎日」
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パリの生活では、朝のパンと牛乳の買い出しは僕の当番だった。
バリのパン屋は朝5時から店先を香ばしさがいちめんに漂よわせる。
パンは日本の様に紙に包まず、裸で持って帰る。
家まで待てない多くのパリジャンは手づかみで食べながら帰る。
何と不衛生な事だと慣れるまでは思っていたが、この熱々を食べるのがうまい。
バリバリと音をたてて口の中で崩れる。湿気の無い国でしかあり得ない食感だ。
持って帰ってもテーブルの上に直に置いてある。決して皿に載せたりはしない。
何と不潔な国だろう。皆が手で触ったパンだ。
先ずはパン屋さんの、手で持ち帰った人の、サービスする人の、
中にはトイレで手を洗わない人もいる。 何と日本人の清潔だ事。
これもべとつかない湿気の無い国のせいだろうか?
ただ外で歩きながら食べると言う習慣は僕達にはなかった。
パン屋、肉屋、小卒のでっち小僧は3時起きで働いている。
ここはフランス封建社会だ。
牛乳の瓶には銀紙のキャップが付いていてそこには日付が書いてある。
今日のをくれ、と身振り手振りで言うのだが、いつも日付を親指の爪で擦って
日付が見えないようにして手渡される。嫌なおっさんだった。
ここは強く自己主張しないといけない国、フランスだ。
ただ牛乳はコクがあって濃く感じる。美味しい。
お店に行くと、どこでも帰り際にオールブワール道上(道上さんさようなら)と言われる。 実は、オール・ブワール・ムシュ・ダムと言っているのが早口なので、オールブワール・ミシダム→オール・ブワール・ミシガム、で オールブワール・道上と聞こえてしまうのだ。 最初の半年はこんなもんだった。耳が慣れるのに半年・・・。
そうこうして月日が流れていった。
フランス語がヘタなりに意思の疎通が出来るようになったのが一年後だった。
NHKのフランス語講座でさんざん勉強していた母のフランス語は現地では通用しなかった。 母はその内取り残され、ソルボンヌで勉強していた姉も、2年半後には完全に僕に追い抜かれていた。子供の覚えは早い。
渡仏当時一番気になったのは水が不味いのと、肌が塩が吹いたように真白い粉が付着した。 パリは盆地であるため、そして石の文化であるため町中石の建物石畳といつも乾燥していた。 これでは脂っこい物を食べないと皮膚がパリンパリンに成ってしまう。
母が作る和食はパリには合わなかった。二番目の姉志摩子が洋食を毎昼毎晩作ってくれた。 やはり素材が日本とは全く違う。魚は大味でソースでもかけないと食べれたものでは無かった。
一方お肉は何といっても豚も鳥も、ましてや牛肉はすこぶる美味しかった。
日本人は総じて肉音痴である。霜降りで柔らかければ美味しいと思っている。
フランスでは、お肉にソースをかけたりしなかった。塩 胡椒で十分、肉は少々硬くとも噛めば美味しい旨味が出てくる。肉の本当の味がした。
フランスにも昔霜降りが有った。だが500グラム、1キロ食べるフランス人達には、やはり赤身のほうがよく売れた。 霜降りを200グラム以上食べると気持ち悪くなる。少量を薄切りにしてすき焼きシャブシャブで食べるしかない。 しかも多くのフランス人がステーキをレアで食べた。霜降りは次第に消えて行ってしまった。
一方、フランス人は魚音痴である。
焼いて塩、レモン、バター、オリーブオイル。魚の味がしない。
やはり日本のような魚の文化は無い。
しかし気になったのはフランス人と言うかヨーロッパの人はじゃがいもをよく食べる。
後でわかった事だが 胃が痛い時、(十二指腸潰瘍、胃潰瘍)じゃがいもの皮をむいて生かじりすると 胃の痛みが一発で治ってしまう。 そう!消化に悪い肉には必ずじゃがいもを食べる事によって 肉の毒素を中和してくれるという事。
それにしてもじゃがいもをよく食べる。
パンが主食では無く、じゃがいもが主食であるかのように。
そう言えばコロンブスのアメリカ大陸発見によってもたらした:じゃがいも、トマト、とうもろこし。 これらによってヨーロッパ諸国は随分と助けられた。 どんな荒れ地でも栽培できる。戦争の度に多くの餓死者を出していたヨーロッパが救われた。
父は日本の料理は貧乏人の食べ物だと言っていたが、
確かに当時のフランスに比べると日本は貧しかった。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。