BIS論壇No.389『鑑真和上 日中学生交流 プロジェクト』中川十郎 9月5日
幾多の苦難を乗り越えて来日し、日本に仏教を広めた鑑真和上をしのび、日中青年・学生の交流に過去14年尽力されている範 云涛 亜細亜大学大学院教授から本年14年目の日中学生交流結団式に招待されたので参加し、挨拶させてもらった。
日中有志のご尽力により、本年4月に建立されたという上野忍が池湖畔の鑑真和上像の前で結団式は挙行された。日中関係者約40名が参加した。
参加者にはとくに日中文化・学術交流、日中若者の親善深化、拡大を目指す日中の若者が多数参加しており、その純粋な熱意に感銘を受けた。
鑑真プロジェクト創設者の範教授は1300年前の鑑真和上がたどってきた足跡をたどり、仏教文化の伝来、遣隋遣唐使の時代を振り返り、シルクロードの歴史のロマンを夢見つつ、鑑真の歴史的レガシーを中国の若者とともに学び、未来志向の健全な日中関係の担い手となる若者を育てるという崇高な目的を掲げておられる。
米中貿易紛争にはじまる米中関係悪化は米国に追随する日本政府の対応も相まって、日中関係は戦後最悪ともいえる状態にある。日本文化の源流は中国にあり、また日中貿易関係は過去最大クラスになっていることにも鑑み、日本は独自の政策で、一衣帯水の日中関係強化、文化、経済関係促進に尽力すべきだと痛感した一日であった。
鑑真は苦難の末に6度目で日本渡航に成功。753年12月18日、屋久島から福岡大宰府へ向かうが暴風で遭難。12月20日に鹿児島の坊津秋月濱に漂着。念願の日本への第1歩をしるした。筆者の故郷の鹿児島大隅半島の高山町(現肝付町)は名勝地 波見の浦を有し、その昔,倭寇の根拠地としても有名で、南方との交易で繁栄を極めていた。港に近い権現山では徐福が不老長寿の薬草を探したとの伝説もある。波見の近くには「唐人町」があり唐との交流の名残との説もある。また高山町には鎌倉建長寺を創設した西蜀出身の蘭渓道隆禅師が1246年に建立した「道隆寺」がある。769年に道教のために大隅に流された和気清麿は波見の浦に上陸。斎藤茂吉「柏原の橋を渡りて相むかう波見の港の古へおもほゆ」と読む。
この町に生を受けた二階堂 進 元自民党官房長官、副総裁は1972年9月の日中国交回復交渉に於いて田中首相の片腕として大平外務大臣とともに尽力された。筆者が高山中学校生徒会長時、PTA会長をされていた二階堂進先生には 以後長年にわたり公私ともにご指導を頂いた。いつも会うたびに国交回復交渉時をしのばれ、「アジアの2大国の日中は仲良くしなければいけない」と強調されるのが常だった。
かって青年時代米国南カリフォルニア大学に留学、国際的な視野で日本のあるべき未来像を考究しておられた二階堂進 先生が今日の冷え切った日中関係を目にされたらさぞかし落胆されるだろう。せめて日中の青年、学生の皆さんが未来志向で日中友好親善交流に頑張ってもらいたいと祈念した一日であった。