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        「フランスでの生活 第28話 パリでの毎日 8」

        ________________________________________

        結局父の弟子 ローベルさん宅に預けられる事になった。

        思えばパリではいろんな事があった。 田舎者の僕には 初めての事ばかり。

        中でも日本人にはがっかりした。

        町で擦れ違うと韓国人は挨拶してくれるが、日本人はしない。

        日本と言う国はお互いが気を使い合い助け合うところが少なくても田舎では当たり前だった。

         

        一歩海外に行くとそうは行かない。

        外国人にとってフランスの暮らしは大変厳しいものであった。

        同胞を避ける日本人も少なくなかった。

        挙句の果ては生活苦によって多くの在仏日本人が、他の日本人に詐欺まがいのことをやっていた。

        それに比べ韓国人中国人は海外で団結する。

        七件しかない日本料理屋はお互いの店の批判ばかり。

        100件ある中華料理屋は共同輸入していた。

        結果現在の回転寿司や免税店のオーナーに日本人は皆無だ。

        パリで一番安いのが中華 しかも決して不味くない。件数が多いからだ。

        逆にイギリスと違って一番高いのがインド料理店だった。件数が少ないからだ。

         

        日本では終戦と言うが、外国人にとって日本は単なる敗戦国であることを知った。

        僕も日本人であることをやたら馬鹿にされ、その悔しさの持っていき場所がなく、よく喧嘩をしていた。 ついにパリに居られなくなり、ボルドーに下宿して学校へ通うようになった。

         

         

        ある日父に連れられて僕はピーガールというモンマルトルの丘に近い治安の悪そうな場所に行った事がある。 地下を降りて行くと暗い湿気の多いバーだった。

        父が一杯飲み終わった頃に日本人の女性が着物姿で番傘をかざし、

        さくら♪さくら♪と歌い始めた。 僕はいやでいやでたまらなかった。

        「お父さん早く出ようよ」と言ったが、父は無言のままだった。

        歌い終わった時、ベレー帽に客から小銭を入れてもらっていた。

        その時初めて父は僕に帰ろう、と言った。

        その女性は後にフランスでシャンソンを歌っていた第一人者として日本で表彰された。

         

        母は池坊のヨーロッパ支部長としてお花を教える傍らサロン・ドトーヌ(絵書きの登竜門)の審査員をやっていた。 ルーブル博物館などの展示室にお花を活けたり、多くのスティリストのウインドゥをお花で飾っていた。 (後1980年代朝日カルチャーなどでフランスブーケを教え広める)

        そんなある日有名なオートクチュールのファッションショーに招待された。

        ある有名な日本のデザイナーはプレスの腕章をつけパシャパシャとショウのコレクションの写真を撮っていた。 日本でコピーする為、である。

        その女性が後日本ファッション界の第一人者となった。

         

        僕がパリの小学校1年に入った時、学校の教科書の世界地図に日本は載っていなかった。 やっと日本が入っている教科書を手にしたとき唖然とした。

        そこには富士山、芸者、人力車しか載っていなかった。

        日本国は存在しないのである。

        日本大使館に姉と文句を言いに行ったが笑い飛ばされただけだった。

         

        長年にわたってフランスから日本への送金が出来なかった。

        フランスに来ていた画家たちは食べて行くことができず、

        日本からの仕送りに頼っていた。 だが日本からフランスに送金する事も難しかった。

        父は彼ら画家たちにパリでお金を渡し、日本の彼らの家族から愛媛の僕達家族に仕送りをするという方法をとっていた。

        僕達は偏見の中で父の苦労を感じ取るのに時間を要した。

        その上、一つの疑問は何故ここまでして父がフランスに居続けなければいけなかったのか。 愛媛県の八幡浜では、花の都パリに住む父は、左団扇でフランスでの悠々自適な暮らしぶりを想像していた。 しかも妬まれ、ある事無い事噂にされた。 当時日本は貧しく、海外での成功ばかりを想像していたが、現地での苦労はあまり想像出来なかったようだ。

         

        パリのキャフェでのんびり座っていると、くたびれたスーツにカメラを2個も3個も肩からぶら下げた日本人をよく目にする。 しかもそれらの中年男が膝を曲げてくたびれた姿で歩いていた。 こんな光景は珍しくもなんともない、当たり前の光景だった。

        父は残念そうな表情を浮かべ、僕は恥ずかしそうにしていた。

         

        当時日本ではモードとかファッションという言葉を使うと嫌われた。

        お洒落をするということが生活に密着しておらず、自己表現するためだけではなく、 マナーでもあるということが生活習慣にはなかった。 そんな中で父は唯一おしゃれな日本人であった。しかもフランス人以上に。

         

        指導者たるものは清潔で輝いていなければ何の説得力も無い。

        ましてやファッションにうるさいフランスでは馬鹿にされる。

        僕もあれほどお洒落な人を見たことがない、と思った。

        だが僕は相変わらずよれよれの格好をしていた。

        それでも日本人団体の(農協)が旗を持ってパリを闊歩するのは見てられなかった。

        中でもシャンゼリゼ通りに茣蓙を敷いて座っている姿は見るに堪えかねた。

        フランス人にあれは日本人かと聞かれ「いや中国人だ」と答えた事もある。

        今のマナーの悪い中国人を日本人はどこまで批判できるだろうか?

        当時の日本人も褒められたものではない。

         

        【 道上 雄峰 】

        幼年時代フランス・ボルドーで育つ。

        当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

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