第40話 「フランス・アルカッションでの生活6」
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夏には高校生にも1か月以上の夏休みが与えられる。
1968年の夏休み、僕はパリで過ごした。
2番目の姉は、父のアシスタント清水猛と結婚、女の子を生んだ。
Vitry (パリ郊外ヴィトリ)で生まれたので、美津里と名付けた。
パリの病院で出産後、医者が心配そうに「大変言いづらいのですがお嬢様は御尻に青いあざが有ります」と。 皆で笑った。日本では当たり前の蒙古斑であった。
この頃は、日本からも徐々に団体観光客が渡航して来るようになった。
愛媛県松山市で精養軒と言う有名なレストランのオーナーである大西さんのお嬢さんが我が家に下宿するようになった。
その彼女が結婚した相手の山中さんは、パリの中心で大阪屋と言うラーメン屋を開き、又免税店も開いた。 小さな免税店だったが一日の売り上げが多いときは3千万円ほどあった。
当時免税店でローレックスの時計を買うと日本の三分の一で買えた。
お酒もコニャクなどだと日本の五分の一、今では免税店の方が高い位だが。
日本人観光客を乗せたバスが一日に何台も横付けされる。一台で40~50人、それが何台も来る。一人あたり30~40万円買っていくから笑いが止まらない。
この頃日本の多くの団体は農協が送り込んできていた。旗を持った50人~100人の日本人団体。個人主義のフランス人はさぞかし馬鹿にしていたであろう。
1960年代はアメリカ人、1970年代はアラブ人、1980年代は日本人、1990年代は韓国人、2000年代は中国人。 パリと言うところは観光客数では世界一。
どっかの国が来なくなっても、また別の国が現れる、東京とか京都にはない面白さがパリには有る。 しかも面積にすると東京の二十分の一以下。
文化だけではない。遊び、食事、すべてが国際色豊かに受け入れ体制がある。
そんな国の免税店だが、昔姪に頼まれて免税店と、買いたくもないルイ・ヴィトンの店に行った。 するとそこの日本人店員に突然、あなた朝鮮人?と聞かれビックリした。
僕は朝鮮人でも韓国人でもないが 仮にそうだとしてもぶしつけな言い方だ!
日本人は真面目に並んで買っているのをあたかも売ってやるとばかりに 人をバカにした失礼な態度をとる販売員が免税店では多かった。同じに日本人なのに・・。
近年だが、パリの免税店でお土産に頼まれた品を見ていると、
「貴方はどこの国?ベトナム人?フイリピン人?韓国人?」といろいろ聞かれる。
聞き方も馬鹿にした態度をとる。「タイ人?マレーシア人?インドネシア人?」
決して日本人?とは聞かない。最後まで聞かなかった。
販売員の彼の胸の札には北京語、英語、フランス語と書かれていた。中国人だ。
僕はフランス語であなたはどこから来たのですかとわざと聞いた。彼は答えない。
中国人はどこの人だという問いにはほとんど答えない。
自分の出所を知られるのが怖いのである。
長年共産主義のもとでチクリ合いが行われて来た人達。
自分の情報は教えない習慣が付いている。
であればなおさらのこと、人に失礼な聞き方をするなと!と思う。
マネージャーを呼んで、マネージャーを叱りつけた。
やはり僕は寮生活で慣らしたので暴言には強い。 未だにフランス人と口論になっても負けない。
しかし免税店と言うところは品のない販売員が多い。
一度上海に35年住んでいる台湾人に聞いてみた。
「何故中国人は代金のお釣りを投げるようにして渡すんだ」と。
彼の答えは「中国ではサービス業は下の下なんだ、だからサービスを知らない。受けたことのない者たちがやっているのでサービスのレベルが低いんだ。」
「日本のレベルに達するには100年はかかる」と。
そう言った意味では韓国、台湾のサービスは良い。
しかし当時のパリの日本人は失礼極まりない。
パリに住んでいるから偉いと勘違いしてしまっている人たちが多かった。
免税店をやっていた山中さんも、どうやらパリのプライベート・カジノで殆どすってしまい、最後には免税店も乗っ取られてしまった。 何故だろう? 外地での中国人韓国人は助け合うが、外国の日本人は孤立して居て、成功すると乗っ取られてしまう。
現在多くの日本料理屋が有るが、殆ど日本人の持ち物では無い。
回転ずしなどでの日本人オーナーは皆無である。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。