第42話「フランスに父母残し一路日本へ」
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当時日本へ帰るのは相変わらず飛行機が一番高く20数万円、船の3等も16万円以上、一番安いのがシベリア鉄道だった。
13万4千円位だったと思います。
パリから横浜まで14日間の旅です。
まずパリー・モスクワ2日間鉄道の旅に出発。鉄道の旅と言っても、16両編成の汽車で、オリエント急行とは似ても似つかずのブルー・トレインでした。
モスクワまでは6人掛けの個室で食堂車はなく、もちろん弁当売りなど来ないし、飲み物も出ません。
全て自前で用意しなければいけないのです。
母が作ってくれた美味しいお弁当と、飲み物も用意して嬉々として汽車に乗り込む。
心配そうにしている母。
僕は嬉しくてたまらないが当時18歳にはまだ2ヶ月足りない17歳の少年。
泣きそうな顔をして見送る母を見るのが嫌で怒って見せる嫌なガキでした。
母のお弁当はいつも品が良過ぎて、少年の僕には物足りない物でしたが、今回のお弁当は非常に心がこもっており
申し訳なくさえ思ってしまいました。
そのお弁当を食べてしまうと電車ではもう食べることが出来ないので、空腹を紛らわせるためにタバコをまた吸い始めました。14歳の時から吸っていたタバコだが16歳の時には止めていました。
そのやめていたタバコをまた吸い始める事になったのです。
フランスでは両刻みのタバコはジタンが有名だが、高いのでワンランク下の安いゴロワーズ。
葉っぱが焦げ茶色い(日本で言うとゴールデン・バットに近い)
両刻みのタバコをしこたま買い込んで、タバコを吸いながらの旅になりました。
6人掛けの個室を出ると通路が有りその通路で煙草を吸うわけです。
窓に連なる田園風景、何も目には入って来ない。
頭の中は日本。
いつの間にか日本が素晴らしい特別な国の様に。
まるで自己暗示にでも掛かっているかのように大好きな日本
大好きな姉にも会える。
パリからベルギーの国境に入りベルギーの税関がパスポート・荷物コントロールの為電車に乗り込んできた。
その後通路で煙草を吸っていると後部車両の中に日本人女性がいると聞き 4つほど後ろの車両に遊びに行きました。
そこで調子に乗ってベラベラお喋りを得意満面披露していました。
汽車はベルギー国境を超えたあたりで暫くの間(4時間)駅でもない所に止まっていたのだがそれが何故だか分かるすべもなく、まさかその後大変なことになるとは・・・!
ドイツ国境に入る時にまた税関検査、軍服の様な格好をした税関員が入って来た。
僕のパスポートと荷物は前の車両に有ると手招きしながら税関員に一緒について来てもらい、 3車両前に行った所で、何とその先には車両がなく機関室に!わ~絶句!!!
後でわかったのだが、ベルギーからは線路幅が狭くなるので車両数が8両ずつに2分されるのです。僕の部屋のある車両はとっくに出発して先を行ってしまっていました。
とりあえず税関の人達に駅で下ろされてしまった。
駅内の税関を見ると他にもそこで捕まっている青年たちが居た。
きっと僕とは理由が違うはず。
では何の理由だろうか?麻薬密輸とか?
僕はインディアン・ルックの様なブルー・ジーンズに半袖ベージュ色の軍服を着て、ウエストには鉄砲の弾入れを通し、その中にはタバコを入れているといういでたちでした。
(写真参照)
どう見ても麻薬を持っているヒッピーか?日本で言うフーテンの格好です。
他に捕まった人同様 税関の皆にジロジロ見られていた。
マイッタ!これでムショ行きだ! 税関にミリタリー?と聞かれる。当時自慢じゃないが英語はからっきしダメだった。
それでもno! non! ファッション! ファッション! という言葉を繰り返した。
更にタバコの入れ物として使っている鉄砲の弾入れを見られ、鉄砲の弾入れ?と聞かれ。
今度はNon! non ! タバコ!!タバコ!あ~マイッタ! これから どうすればいいのか?・・・?
入れ替わり立ち代り数人に質問され、そのたびに僕はJapan ! Japan ! モスクワ! ヨコハマ!をひたすら連発した。
当時スペイン語なら学校で習っていたが、ここはドイツ。
そしてドイツ語では何を言われても分からない。
ところで どこの誰が世界じゅう英語が通ずると言った・・?とんでもない!英語が通じる国は少ない。
当時世界でも通じるのは旧イギリス領だったアジアの開発途上国だけだ!
そんな状況から2時間ほど過ぎた頃、僕がおいて行かれた列車が戻ってくると言う情報が!?なんとスイッチ・バック式の列車だった。 スイッチバックの細かい説明は省きますが、要するにベルギーの駅からベルリン駅に行く途中、まず西ドイツのA駅を通ってB駅に行き、そのB駅からUターンして再びA駅に戻ってからベルリン駅(言う なればC駅)に向かうというものだった。僕はそのA駅で降ろされたと言う事になる。
何とラッキーな事だろう!
しかし知らないという事は恐ろしいものだ。車両が真っ二つに分かれるとは今こそ知っているが、当時は予想だにしません。
父から解放され天国にも登ったような気分でいたが、なんの天国はまだそばまで来てはいなかったのだった。
再び汽車に乗り込むことのできた僕は、フランス人夫婦から「伝者バト」とからかわれながら汽車は東ヨーロッパへと向かって行った。この時から道上と言うガキは乗客の間でちょっとした有名人となってしまった。
西ヨーロッパからモスクワまで向かう間、列車は外から鍵を掛けられ誰も降りることは出来ません。
ベルリンに入った時、感じの良い美しい税関員に本が読みたいので本を頂戴と言われ気前よくあげ てしまった。
後で考えると体のいい没収でした。
西の情報を東に持ち込まないと言う事だったのだと思います。
来週はソビエト連邦へ 続く
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。