第44話 「モスクワ出発」
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モスクワからハバロスクまで飛行機で8時間ほどです。
その間窓のカーテンは閉めたまま。
カーテンを開いて写真を撮ったりしたらカメラは没収です。
今の飛行機のように映画が観られるというわけではないので寝ているしかない。
当時は大きい旅客機が無いため通路が狭く、寝ているとドスンドスンと歩いて来るスチュワーデスの大きなお尻に小枝のように弾かれ、なかなか眠れません。
僕の頭がまるで鹿威し(ししおどし)スコン!スコン!
当時のロシア人はシャラポワではない、砲丸投げ選手の様な人ばかり!
ところで海外旅行の手段として飛行機ほど当時から値上がりしていないものはないですね。むしろ季節によっては今の方が安かったりします。
ハバロスクからナホトカまで今度は4日間寝台車で移動します。
さすがにこのあたりになると皆さん疲れた様子です。
ハバロスクでもナホトカでも乗り換えは全て休憩なしのトランジット、 値段が安いのだから仕方がないのです。
客室は両側に備え付き の2段ベット。
通路(廊下)に出ても汽車から見える田園風景? フランスと違って緑が見えて来ない。
見渡す限りねずみ色の土、きっと地下資源が豊富なんだろうが
農産物は見えて来ない。
きっと何も見えない所に鉄道を引いているのだろう!
そんな馬鹿な!
やはり未開発の国だと!
日本の様に山の上まで段々畑がある事を見せてあげたい。
トランジットでのお店もろくなものが置いてない。
日本の温泉場のお土産屋かと思ってしまうほど粗末な物しか置いてない。
こけしが山盛り並んで居て 毛皮の帽子 賞味期限切れの香水?
誰も買っている様子がない。
旧ソビエト連邦は貧しさしか感じさせなかった。
ナホトカに着くとすぐに乗り換えて横浜まで4日間の船旅となった。
最終行程で間もなく日本というところになり、やっと皆さんリラックスモードに。
ただ日本海に入ったとたん大揺れとなり、食堂には誰もいません。
ここでも僕は一人で たら腹食べ、船は津軽海峡を抜けて太平洋へ入ってきた。
船は決して小さな船では無かったが、豪華客船には程遠いものであった。
たった四日間の船旅、汽車での狭い空間で四日間も過ごして来た我々には頗る快適にさえ感じた。
ただむかし日本からフランスへの船旅に比べると海が暗かった。
両方とも夏旅だったのに。
最終目的地である横浜港までの船旅。
最後の晩餐を終え、乗客皆で食堂の椅子とテーブルを片付けると
音楽バンドが用意された。
演奏は非常に上手なのだが、クラシックとロシア民謡では盛り上がらない。
ソビエトの印象というと当時は、閉塞感、誰かに見張られている、無知、そして狂信的に映っていました。
きっとこれは日本での教育のせいと、我々が無知だからそう見えたのでしょう、今では逆です。
先日会ったロシア人は日本の都道府県を全部言えました。
思わず、KGB?と聞いてしまったほどです。
(今はアメリカに対し、無知で、狂信的で、盗聴で見張られている感が・・・。)
バンドの休憩の時に僕がお願いすると19歳の日本人青年がバンドのエレキ・ギターを弾き始めました。
とても上手!当時、日本はエレキ・ブーム。みんなが踊り始めた。 ゴーゴーと言うのか、モンキーダンスと言うのか、とにかく座っている人はいません。
ここでもソ連人と日本人の差は大きかったのでした。
ソ連人の音楽に対する感性は素晴らしい!
ただすべてが固く感じられる、音楽に遊びがない。
でもそこにいたソ連人は褒めるとよく照れたりして、みんな良い人に見えた。
そのうち、皆ほろ酔い加減で疲れも出てきて地べたに座り始めます。
そこにイタリアへカンツオーネを勉強に行ったという声学家がいた。 僕が歌ってくれとせがむと、最初は渋っていましたが、やっとの思いで歌ってくれました。
背丈は低いが 声がめちゃくちゃ大きく 凄い声量!何か海の向こうまで届きそうだ! 日本人も外国人も拍手喝采、アンコールの嵐です。歌い始めると結局20数曲歌ってくれました。その歌声があまりにも素晴らしかったので僕は、「将来カンツォーネが歌えるようになりたい!」と神に祈ったのでした。
翌日の昼、やっと横浜港に到着。
桟橋には180cm以上有ろうかと思われる、スリムで背の高い外国人女性がシルクのワンピースを風になびかせ入口に立っていました。 格好良い!
一方一緒にいたフランス人青年(20歳)が港にいる日本人女性達を見て、
日本人女性は綺麗だ、想像以上だ、と言った!本当!??
来週は日本での暮らしを話したいと思います。
続く
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。