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        第47話 「心の叫び」

        ________________________________________

        日本に帰って来たばかりの時、僕の顔を見た人達によくプエルトリコ人と言われました。 その後韓国人と言われ、最近やっと日本人に見られるようになった。

        よく日系2世は日本人の顔をしていないと言われますがそれは気候とか食べ物によるのではなく 先週のメルマガでも述べたように言葉の発声によるものだと思います。

         

        たとえば日本で生まれ育ったアメリカ人には顔や雰囲気が日本人に見える人がいます。 ちょっと理屈っぽく言い訳がましい話には

        なってしまいましたが、いたってまともだと思っている本人とは裏腹に 当時僕は変人・フランス人と呼ばれていました。

         

        何かにつけ日本はおかしいと思っていました。

        処世術だけで要領良く生きている異人(日本人)の中で、僕自身は外国人扱いされていきます。

        僕が父から聞かされていた日本とは大きく異なる現実を目の当たりにし、寂しくも悩んでしまう毎日だった。

         

        フランスにいた時、フランス人と喧嘩をしているといつの間にか「僕」対「フランス」の戦いになってしまっていた日々。

        背中に日の丸をしょって日本男児という妄想の中で戦って来た自分がいました。

         

        しかしフランスでも外人、日本に帰ってきても外人扱いされる。

        思いが募り 「俺の祖国は何処だ!!!」 「僕の愛した日本は何処へ行った!!!」 「俺は誰だ!!!」 身体が凍り付き目頭だけが熱い、そんな毎日でした。

         

        先月、素敵な女性とランチをする光栄を得ました。

        その方は1982年12歳の時にベルギーに渡り、18歳までフランス語圏で過ごしたそうです。

        時代は違うが僕と同じ境遇の中で苦しみ、親を恨んだと言っていました。

        親を恨むのはおかど違いですが彼女が言った事はよく理解できます。 観光旅行で外国に行くのと移民とでは大きな違いがあります。

         

        人間は3歳で大人の脳の50%が形成され(三つ子の魂100までも)12歳で80%、その後12歳から18歳までが大人になる準備と言われています。

        その最も多感な年齢に将来どの様に生きて行くかがまったく見えないという事は、人に余計な迷走をさせてしまうのです。

         

        フランスで喧嘩する時は相手が何人いようが負ける訳にはいかない。

        道上伯の息子だから負けるはずが無い、日本人だから負けてはいけない。

        何も喧嘩で発揮する問題ではないのでしょうが、そこだけは譲れませんでした。

         

        宗教に疎い僕がいつの間にか神に話しかけていました。

        「神様どうして僕はこんな境遇なのだろうか?」 「どうして僕だけ苦しまなければいけないのか?」 そんな中で唯一の救いが父でした。

         

        1952年に、無償の条件で、言葉も分からない、行きたくもないフランスに 乞われて渡った父。

        彼は僕にとって最大の敵でありましたが最大の救いでもありました。

         

        ボルドーの道場に行くと 数十名の生徒が正座して道上伯を待っています。

        その間物音ひとつ聞こえません。

        年に1度の講習会では各国から集まった柔道教師数百名が正座をして父を待っています。

        時には世界チャンピオン級の柔道家が数人立ったまま、声を荒げない父の一睨みで泣いている。

         

        それを見るにつけ自分の悩みはすっ飛んでしまいます。

        僕が行った時とはまるで状況が違う時代に単身渡った父。

        インドシナ戦争で親兄弟が日本兵に殺されたというフランス人も多くいる中 ヨーロッパへ渡り、殺されてしまった日本人柔道家が何人もいたという時代でした。

         

        だが帰国した日本には、僕の父はいません。母もいません。

        一時期東京早稲田の交差点の裏に下宿していた事がありました。

        その裏の小さな丘では、毎晩「突撃!」と声を張り上げ、長い竹竿を持って訓練している革マル派の学生(?)達がいました。

        昼間ピッピと笛が鳴ると 青いジャージを着て、首に手ぬぐいを巻いて僕は走って行きます。

        機動隊と学連の衝突が起こるとすかさずその中に飛び込んで行って両方を殴る。

        ぼこぼこに殴られた事もありましたが、なんだか気持ちがよくて、これ以上のストレス解消はありませんでした。

         

        ある日 白いジャンパーを着た二人の私服警官に突然両腕をつかまれ、連行されそうになりました。

        とっさに裏拳を彼らの顔面に当て、その隙に足払いをして逃げました。 慌てました。

        もし連れて行かれたら無理して入れてもらった学校は退学!!!

        その後は一度も学生と機動隊のぶつかり合いには加勢?しない事にしました。

         

        体育会系のジャージ姿に首から手ぬぐいといういでたちはどちらにでも(学連にも体育会運動部にも) 取れる格好ですが、おそらく以前から目を付けられていたのだと思います。

         

        一方、僕の通っていた九段の高等学校はいわゆるお坊ちゃま学校で、 一学年180人のうち10人ほどの外国帰り(今で言う帰国子女)がいました。 と言っても彼らには殆どが現地でも日本語の家庭教師が付いていました。

        だから九段の高校に編入すると1学年落ちで、授業・一般生活に支障は無かった様に見えました。

         

        その学校は年に10人ほど東大に進学していたのですが、当時その半分以上は外国帰りでした。

        しかし大人になって彼らに会った時「道上が羨ましかった」と言われて意外でした。

        実は皆悩んでいた、苦しかったのだとその時初めて知りました。

        中には精神病院に通っていた学生もいたようです。

         

        子供はダブル語学教育を受ければ良いと世の無知な母親は安易に言いますが それは子供の心が分かっていない母親です。

        あえてそうするものでは無いと思います。

         

        特に当時は日本人とフランス人の発想の原点に余りにも違いがありました。

        一つの言語をしっかり習得したうえで、もう一つを習得した方が バランスの取れた人間に育ちやすいのではないかと思うのです。

         

        あるオーストラリア駐在員ジャーナリストの弁:

        ”これ以上滞在していると英語が上手くなりすぎるので帰国を要請し受け入れられた。

         

         

         

        【 道上 雄峰 】

        幼年時代フランス・ボルドーで育つ。

        当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

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