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        「古武士(もののふ) 7話 道上伯を武専へ」

         

        師・赤松の努力のかいあって吉田中学(旧制中学)の柔道部はみるみる強くなって行った。

        伯を大将に団体戦は全戦全勝。南予審武会(南伊予に有る7校の対戦 )を制し、強豪校の評判を欲しいままにしていた。

        ある日、伯は赤松との乱取り稽古で決死の覚悟で攻めに攻め、ついに、赤松から1本取ることが出来た。

        赤松は満面の笑みを浮かべ「今のは完全に1本だ。参った!」と伯を称えた。

         

        その夜伯は赤松邸に一人呼ばれた。

        すき焼きを振舞いながら赤松は言った。

        「道上、俺を倒し乗り越えて行かなければ、出来たばかりの吉田中学校の柔道部の伝統を切り開いては行けない。

        まずは俺を倒すことに励め」この言葉は、この夜のすき焼きの味と共に、伯の胸に深く長く残った。

         

        この年、伯は宇和島神社の柔道大会に出場した。

        16人の出場選手の中には三段の大学生2人が含まれていたが、伯は次々と勝ち抜き、ついには一人で15人全員を抜いてしまった。しかも全部投げの1本勝ちであった。

        さらにこの年には京都で開かれた大日本武徳会本部の武徳殿で開催された柔道青年大会があり、武専二年生で三段の主将と対戦して、ここでも相手を敗っている。

        しかしこの試合に関して、伯は他人には「引き分けた」と言っていたそうだ。

        それは伯の相手に対する気遣いで、事実は見事な勝利であった。

        自分が誰それに勝った、とか誰それよりも強かったなどとという事を、伯は生涯一度も口にしなかった。

        そしてこの年に伯は三段になった。

        それまで中学生で三段というのは地方では前例がなかっために物議をかもした。

        十代の青年に段位に相応しい人格、見識が備わっているか、厳しく問われたのである。

        しかし、そうした論議を打ち砕くだけの活躍と実績がすでに伯にはあった。

         

        ある日のこと、愛媛県の県庁所在市でもある松山での試合後、先輩に誘われて飲みに行った。

        さんざん飲んだあげく「道上、金はまだいくら有るか」と言われたので全額見せると「ようけ持ってるじゃないか」と言われ、全部使い果たすまで飲んだ。

        さらにその後「八幡浜までの電車賃は持っているか」との問いに、電車賃を見せたところ、じゃあ、それで飲もうと言われ、また飲みに行った。

        夜もふけ、飲み続けてとうとう明け方となった。

         

        当の先輩は完全に酔いつぶれている。

        有り金全部飲んでしまった伯は線路伝いで88キロの道のりを高下駄で帰った。

        松山での試合には勝った。

        しかしさすがに八幡浜勘定にある自宅に帰った時にはバッタリ倒れ、死んだように爆睡してしまったそうだ。

        当時先輩は絶対だった。たとえ戦った後疲れきっていても。

         

        数年前に前田光世(コンデ・コマ、後述)の本を読んでいた伯は、前田が学んだ早稲田に入学し、そののち海外へ渡る、という夢を密かに持っていた。

        卒業前に、師である赤松にその思いを打ち明けたところ、伯にとって思いもよらないことを言われる。

        「君にはぜひとも武専(大日本武徳会武道専門学校)を受験してもらいたい」

         

        赤松は同志社時代、武専教授であった田畑昇太郎に師事し、田畑道場で腕を磨いていた。

        だから赤松は地方では珍しく強かった。

        田畑は武徳会本部の審査委員として、西日本各地で行われる昇段審査へたびたび出向いていた。

        そこでずば抜けて有望な若者を見つけるとその師匠に、その有望な若者を武専に進学させるように説くことがあった。

        彼はすでに道上伯に着目していた。

        武専教授、田畑昇太郎八段(後十段)は赤松に指示した。

        「どんなことが有っても道上伯を武専へ。」

         

        間もなく赤松は伯の自宅を訪ねた。

        当時は東大を出ても就職がままならぬ不況下にあった。

        赤松は、伯の卓越した指導者の素質を見抜き、「武専では古文漢文を学び、一生食いっぱぐれる事が無い」と父安太郎を粘り強く説得した。

        あまりの赤松の熱心さについには安太郎も折れ、伯は武専を受験する事になった。

         

        ここで道上伯が当時憧れたという前田光世(コンデ・コマ)について語りたい。

        日露戦争で大国ロシアを破った日本の軍人を高く評価したアメリカ合衆国大統領テオドール・ルーズベルトは海軍兵学校で柔道の教科を取り入れようとし、ホワイトハウス体操場で模範試合を行った。

        大統領夫人、令嬢、各スポーツ界の代表者、政府、軍関係者、日本大使、駐在武官等が詰めかけた中、講道館四天王の一人富田6段(当時最高位)は開始のブザーが鳴るとともに、あっけなく対戦相手のフットボール選手に押さえつけられ、敗れてしまった。

         

        試合の結果はこの時詰めかけていたマスコミによって、一夜にしてアメリカを駆け巡り日本柔道の権威は失墜してしまった。

        その名誉を挽回しようと前田は、ストリート・ファイターの如くボクサー、レスラーといった荒くれ者を相手に公式・非公式を問わず異種格闘技戦に挑み、全勝した。

        しかしその名声が高まる事により、彼は講道館から破門となる。

         

        既に有名だった前田は70万エーカーの土地をブラジル政府から送られ、ブラジルに帰化した。

        当時政治家だったグレイシー・一族5人の子供たちにも柔道を教え、1941年にブラジルで没した。

        アマゾン開発の父とも呼ばれた前田は大変尊敬された。

        最後の言葉は「持って来てくれ わしの柔道着を・・・。」だったそうだ。

         

        学生時代の道上伯には、前田の自由で型破りな、

        スケールの大きな生き方が憧れだったのではないだろうか?

         

         

        次回は 武専入学

         

         

         

        【 道上 雄峰 】

        幼年時代フランス・ボルドーで育つ。

        当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

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