「古武士(もののふ) 第8話 武専入学」
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1933年(昭和八年)道上伯は武専(大日本武道専門学校)と
立命館を受験した。
立命館も武専も合格したものの、入学の段階で武専では待ったがかかった。
二歳の時 自宅の庭から崖下の道路に転落した後遺症で、助膜炎の古傷が検査フイルムに影として残ってしまったことが引っ掛かったのだ。
師の田畑は「一年間様子を見よう」と言った。
一年間柔道を続けて問題が無いようであったら 翌年には入学を許すと言う事になった。
こうして伯は当時法律専門学校であった立命館へ 一年間通うこととなった。
立命館は田畑が 講師として柔道を教えに行っている学校だった。
実技、筆記ともに抜群の成績で合格していただけに残念ではあったが、法律の勉強をするのも悪くないと考えていた。
伯は学校内では1934年に剛柔唐手(空手の旧称)を大日本武徳会に登録した開祖、宮城長順と一緒にやっていた。
後に剛柔流を含む四大空手の一つである和道流空手から、伯は八段を授与される。
このころ合気道の開祖植芝盛平とも親交があった。
大日本武徳会は116ある柔術各流派(町道場の講道館も含む)を束ねていた。
したがって剣道を除き、すべての武道は大日本武徳会から誕生したと言っても過言ではない。
伯は1934年に二度目の受験で楽々と武専に合格した。
この時すでに21歳だった。
受験者650人のうち合格定員20名という日本一の狭き門を二番での合格であった。
実技一番、学科二番。
武専は平安神宮の中にあったため、通学は下宿先の吉田から聖護院を経て徒歩10分程度だ。
途中先輩たちに会おうものなら走って近づき大声で御挨拶をする。長幼の序の徹底した学校だった。
武専という文字の入った校章を中央に配した角帽をかぶり、着物に袴、足袋に高下駄をつっかけて、 時には雪駄、とおしゃれな武専では、二年からはインパネス(和服用コート)を羽織る。
礼儀正しく、京都市民からは尊敬され、地回りも道をあける正義の味方の通学だった。
一年生は必ず先輩達と同じ下宿所だった。
毎週正課だけで56時間の授業の上、厳しい教育は校外の生活にも及び、少しでも瑕疵が有れば躊躇なく放校された。
24時間の監視下である。
夕食の用意 風呂での洗い、奉公に洗濯。
授業が終われば道場掃除それから先輩たちの道着を洗って乾かす。 日常生活や練習態度の注意(制裁)後の事だった。
だから父、伯は料理も洗濯も上手だった。
フランスで「先生は何処の洗濯屋に出しているのですか」と尋ねられることがよくあった。
「海老」という、抑え込まれた時に相手をひっくり返すための練習がある。
畳の上で肩を軸にしてコンパス回りをし、右肩から左肩と軸を変えながら道場を何十往復もする。
技の打ち込みでも何十往復。気が遠くなるような練習量だ。
さらに時間外は下宿の庭や山に登って 独り自主練習をする。
硬い食物が消化できないほど身体は悲鳴を上げていた。
練習の厳しさで毎年夜逃げする者や、時には死人が出ると言われたほどの学校であった。
伯も疲れきって死ぬかと思ったことが有り、その時に初めて悟りの様なものを感じたそうだ。
苦しみの五段階と言われるものがあったという。
フランスに住んでいたころ、デュポンのライターの火を自分の手に当て、 熱いと思わなければ火傷はしないと言って見せられた事が何度かあった。
剣道の素振り一万回、蹴り突きの練習一万回と毎日やっているうちに別次元に入って行く感覚が有ったそうだ。
後年「道上には後ろに目が付いている」とよく言われたものだった。 もちろん後ろが見えるということではなく、背後の気配を感じ、その気配の分析まで瞬時に出来たということだ。
「武道を奨励し武徳を涵養」することを目的に作られた学校は、生徒だけではなく、先生方はさらに上を行くほどの凄まじさであった。
磯貝一柔道主任教授を始め、田畑昇太郎の投げる稽古に投げられる稽古、どんな所から落ちても四つん這いになって着地する。
栗原民雄は武専の直ぐ上にある吉田山に毎朝登り、立ち木や大きな石に挑んで独り稽古で身体を鍛えた。
このため吉田山で枯れた木を見たら栗原の打ち込みの跡だと分かった。 誰もが認める日本で最も強い柔道家であった。
最強の柔道家は猛烈な稽古、それも独り稽古で自らを鍛え上げ、人の倍以上の練習をした。
彼ら三人が柔道の正しき「形」の全ての考案者であった。
後に三人とも十段を授与されている。
礼儀正しく、何者に対してでも敬語を使った。
道上伯も生涯相手が誰であれ敬語を使った。
人を呼び捨てにしたり横柄な物言いをする姿を誰も見たことが無い、やはり武専の影響か?
あまりの激しい練習の結果か、武専の生徒で体重が80kgを超える者がいなかったそうだ。
勿論身長が180cmを超える者は沢山いたが、なぜか体重は
80kg以上にならない。
今の柔道家はズングリムックリしていて余計な肉が付きすぎている印象だが、 武専では重いと技の切れが無く、練習にもついていけなかったそうだ。
ボクシングで世界チャンピオンになる選手が(ヘビー級を除き)皆細い身体をしているのが分かりやすいかと思う。
チャンピオンになってピ-クが過ぎるころから筋肉隆々になってゆく、下手な筋肉が付くと動きが遅くなりすぎ、ましてやガニ股などありえなかった。
武道のすべての動きは内股だ。
競走馬や100メートル等の短距離走などを正面からとらえた画像で見ると分かる。
まるで10センチほどの幅を両足をクロスしながら引っ張られるが如く走っている。
プロが見ればすぐ分かる。
正しい動きは「様式美」そのものなのだ。
ましてや武専は、全ての武道を統括し、科学的かつ合理的に融合し進化させて行った。
科学的に合理的に。真の武道の、神髄が見えよう。
これを日本の文化と言わなくて何が文化か。
次回は 高学年の武専
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。