「古武士(もののふ) 番外編 」 3/6
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「古武士(もののふ)番外編 講道館柔道への爆弾宣言」③
三月二十一日、こんどは私が久し振りで日本へ帰ってきた。
ヨーロッパ柔道界の現状報告、ならびに今後の欧州柔道経営のあり方などに関して懇談するつもりで、羽田に下り立った。
しかし、私のこの目的は全然といっていいほど果たされなかった。多くの人に会った。どの人も責任ある解答を私には与えてくれなかった。
失望する私に諸先輩は講道館長・嘉納履正氏に面会することをすすめた。それに私は従った。だが、不幸にして、面会の申し込みは一回目、二回目ともに時間が与えられず空しかったが、私はへこたれなかった。そしてやっと三回目の申し込みで、約二十分たらずの会見を許された。全日本選手権が終った後の、それは離日直前の五月二日のことである。
わずか、いや、たったの二十分といった方がいい。これで何が話せるというのだろう。会見はあっという間に終った。本論に入る前に時間切れの判定が下されたのは、何としても残念でならなかった。
私は訴えたかった。欧州柔道界に流れている声なき声を、世界の柔道の中心の人々の耳に、心に、伝えたかった。一に講道館のかかげているスポーツ柔道という考え方に対する意見もある。
たとえば昇段の問題をとろう。真に柔道をスポーツとみなすならば、段はもっと合理的にすべきでないか。つまり、その年の選手権者を十段とし、決勝戦に敗れた者を九段、準決勝まで勝ち進んだものを八段という風にすべきではないか。この考え方はヨーロッパ人がみても決して不可解な段ではない。時の実力者を表示する段であってこそ段の意味がある。
だが、その前に、柔道は果してスポーツなのだろうかを考えてみることも必要である。柔道には、たしかにスポーツ的要素もあるが、それが総てではなく、柔道の中にひそむすぐれた精神、それは禅に通じる崇高なる人間完成の道であると私は考える。互いに心身を錬磨し、立派な人格を作ることに、その大目的がある、という”伝統柔道”を私は標榜するのである。
そうしたことに対する意見の交換を、私はしたかった。
だが、満足な話し合いもできぬまま、講道館長の「六月初旬アテネのIOC総会出席後、フランスへ回るから、その時に十分話し合おう、自分の方から連絡する」という言葉を信じ、翌三日、私は日本から旅出たねばならなかった。
私は幾分失望を感じていた。だが、それに浸っている暇はなく、オランダで私を待っていたものは、欧州柔道選手権大会をひかえての猛稽古であった。
欧州選手権大会はイタリアのミラノ市で催されたが、オランダ選手は団体、個人とも優勝し、合計十二個のカップを獲得することができた。終ると直ちにフランスに帰った私は、遠距離旅行をさけてひたすら館長からの連絡を待った。
六月初旬、館長一行がフランス、ベルギーを旅行中であることもひそかに知った。それ故に、いずれ連絡はあるだろうと期待していた。だが、期待はあまりにも空しかった。
間もなく、私がオランダの協会から受けとったのは、館長一行はすでに帰国したという知らせと、もう一つ、もっともっと腹の立つ、暗い、一通の質問書であった。
協会からの何ヶ条かの質問に答えるため、ペンを走らせながら私はその馬鹿馬鹿しさに叫びたいくらいだった。すべてに腹が立った。何が私をこんな辛い立場に追いやるのだろうか。
あるオランダ人が、嘉納館長の側近と講道館の欧州派遣員とベルギーで会って、帰国すると、その時かわした話の内容をオランダ柔道協会に意見具申してきた。その内容が質問の主意になっていた。
私は疑う、本当に日本の講道館の柔道家が、こんな卑劣なことを語ったのだろうか。
質問の内容はこうだった。
「オランダ柔道協会が今後も引続き道上(私のこと)を最高技術顧問として継続するならば、講道館はオランダ柔道協会に対して一切 の援助を与えない。道上は講道館の免許をもっている者ではない。云々」
さらに道上を断われば、神永五段のような優秀な指導者を派遣する。そして、道上は今春講道館長を訪問したが、門前払いをくったものである、と付け加えられていた。そうしたことが事実か否か、質問状は私に問いかけている。私は慎重かつ正しくこれに答えた。
そして最後に「講道館がそのような方針なら、自分はいつでも当協会と縁をきることにやぶさかではない。オランダ柔道が正しく発展することのみを希っているもので、他意はない」と記し、書類にサインして協会へ渡したのである。
協会のある幹部が、やや興奮していた私の肩を叩きながら言った。「オランダ協会は、過去に於て、一度も講道館から援助を受けたこと無し。それを何ぞや、オランダ協会に対して今後一切の援助を与えないとは。おお、神よ」
私はこの言葉に救われた思いだった。正に、おお、神の声であった。それ故に、テープレコーダーにおさめて、この言葉をいまも私室の奥深くしまっているのである。
私は、どう誤解されようとも、またどんな犠牲をはらっても、来るべき世界選手権大会で、オランダの選手に優勝させようという強い、確然たる決心を抱いた。
それが、日本の柔道に対する私の誠意であり、忠誠であり、せめてもの恩返しであろうと思った。そして、それこそ柔道の正しい発展のために役立つで あろう。幸いヘーシンクやその他の幹部、選手諸君は、事情を正しく理解してくれて、「言いたい奴には言わしておきましょう。私たちは今はもう講道館から学ぶべきものは、何一つない。日本の柔道で学ぶべきものがあるとすれば、警視庁に残る武士道そのもののような鍛錬、言葉ではいい表わせないあの緊張した雰囲気のほかにはないのです。
私たちはここにあの雰囲気をつくり、あのような気持になって修行し、必ず選手権を獲得し、いたずらに政治をもてあそぶ連中に反省を求めることにしましょう」と、逆に私を励ましてくれるのであった。
そしてオランダで、更に私の家のあるボルドーに転じ、世界選手権目指してのわれわれの努力は続けられた。その年の十一月が終るまで、鍛錬の上に鍛錬が重ねられた。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。