「古武士(もののふ) 第12話 上海」
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本日2014年5月6日、上海のホテルの部屋でこのメルマガを書いています。
2年に一度のペースで上海に来ていますが、あまり変わり映えしない中国です。
よく皆さんが上海は変わったと言いますが、確かに値段は変わりました。
外観も変わりましたが、実はこの60年中身は全く変わっていない。
2年前に比べると自動車は新しく綺麗になり、台数も増え、中心部から15キロの飛行場へ行くのに1時間もかかる混雑ぶり。 ただ人間は変わっていない。
5日の夜、6日の夜と1980年代後半から1990年代前半まで日本に留学していた中国人の方と食事をとる。
彼によると、中国はもう2年もたないだろう、間もなくバブルが弾けるだろうということだ。
日本でバブルが弾ける様子を見た経験者だからこその発言。
さすがである。
香港の住民も、中国の住民も弾けると思っている人は極めて少ない。
その数少ない中国人富裕層の多くはアメリカに富を移しているとか。
そんな中、5月6日の昼間に交通大学へ行った。
交通大学というと江沢民も卒業した大学だ。
昔この中に東亜同文書院大学があった。
門は新しく塗り替えられていて、東亜同文書院校舎も図書館になっていた。
東亜同文書院とは 異国に建設された日本の学校として、当時世界的に注目されていた。
生徒は日本人、中国人、朝鮮人もいて、孫文も教鞭をとったという。
まさに東洋一の学校であった。
そこに道上伯は予科教授、学部講師そして学生生徒主事として招聘された。
清国は1840年のアヘン戦争・1850年の太平天国の乱以来、軍備が強力な割には内政が腐敗混乱し、 英・仏・独・露の四か国に勝手気ままに侵略されていた。
植民地主義の毒牙に対抗しようとして設立されたのが日清貿易研究所(東亜同文書院の前身)である。
20世紀を目前とする頃には列強国の中国に対する領土拡大の野心がますます露骨になってゆき、 アメリカもフィリピン、サモアなど南シナ海、南太平洋につぎつぎと海軍基地を建設するに至って、 日本ではアジアの安全に対する危機意識がにわかに高まっていった。
ペリー来航からわずか40年、黒船の脅威は未だに記憶から去らず、 列強に蹂躙される中国の惨状は日本にとっても他人事とは思えなかったのである。
この研究所は日清戦争後に、中国を考える東亜会(おもに政治家、言論人、学者が構成メンバー。 有力メンバーには清朝打倒を目指す孫文らの革命派を支援する活動家も多かった)と、 同文会(時の貴族委員、近衛篤麿を中心に清国の張之洞、劉坤一らが 「情意を疎通し、商工貿易の発達を助成する」ことを目的としてつくられる)の 二つの会が合併し、明治34年(1901年)8月に東亜同文書院が発足することにより引き継がれる。
日本人は努力して事を成就し、しかも黙して語らない。
日本人は公に発表することを望まず、また名声をほしがらない。 ただ人に知れずに、将来のために備え、誰にも本心を知られたがらない。
これが東亜同文書院を貫いている精神であった。
しかも中国人街にあって、そこだけが周りとは無縁の自由な学園を頑なに守っていた。
昭和15年(1940年)に赴任した道上は忙しかった。
柔道は学部、予科ともに正課で、一学年170~180人。
柔道教師は道上一人しかいなかった。
このため月曜日から金曜日までは午前2時間、午後3時間、授業にかかりきりになる。
放課後は2~3時間柔道部の指導にあたる。
こちらは土日も関係なく毎日のことで特別な時にしか休みは無い。
道上の住居は一戸建てでキャンバス内に在った。
今流に言うと3LDKで畳が二間、他はフローリングという間取りだった。
そんな校内を雄峰はどのあたりが住居だったのかと今日も歩いてみた。
しかし今は新しいビルが立ち並び、正確な場所さえも分からない。
当時上海だけで中国経済の83%を担っていた。
フランス人シェフが上海に来るとフランス国の約3倍の給料を貰っていたという。
当時の2国間の物価を考えると何十倍に匹敵する。
上海は世界一の街。上海バンスキング、夜の街、ジャズ、キャバレー、何でもござれ! フランス租界で道上伯はワインを嗜んだ。
そんな素晴らしい街での生活を来週お届けします。
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。