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        「古武士(もののふ) 13 東亜同文書院への赴任」

        ________________________________________

         

        上海東亜同文書院の柔道部は、当時西部高専大会を制するほどで、 全国大会の決勝で拓大に敗れたものの準優勝をおさめる実力だった。 昭和15年、道上伯はその東亜同文書院に赴任した。

         

        阿久津房奈治(40期、昭和14年入学)は道上が初めて柔道部に顔を出した日の事を、今でもよく覚えているという。

         

        「柔道部の学生が連日練習で汗を流しているところに、初めて道場に来た道上先生は、 黒の絽(ろ)の羽織、袴すがたでした。

        腕に自信が有る者たちが『今度武専の凄い人が来るらしいが来たら腕ためしをしてやろう』 と話していました。

         

        それで実際先生が来たので強い連中が並んで腕組をして、待ち構えるよう先生を見ていました。

        先生はそうした空気を察したのでしょうか、何も言わずに道場の隅に行って、柔道着に着替えると、つかつかとその連中の前に進んで行きました。

        私はまだ2年生だったので、どうなるものかと固唾を呑んでみていました。

         

        すると先生は、端から手招きをして一人一人呼び寄せると、あっという間に十人ほどの学生を投げ飛ばしてしまいました。

        私は思わず、すごい、すごい先生が来たと心の中で叫んでいました。」  

         

        高知高校赴任の日と似たような光景が繰り広げられたのである。

         

        こうして道上は、初日にして柔道部の学生たちの心をつかんでしまった。

        道上の大学正課の授業は合理性を重んじ学生に無理をさせなかった。

         

        「先生の教え方は強制しないし合理的で非常に共鳴しました。

        無理せず柔らかく受け身とか護身術を教えていました。(前出阿久津)

        「しかしこと柔道部の練習には厳しかった 昼間は授業をサボって三時まで寝ていました」(上田茂、44期生昭和18年入学)

        「授業は休んでも部は休まない、が柔道部員の口癖でした」

        (徳井清太郎、43期生昭和17年入学)

        「ある時立ち技の練習で先生に絞め落とされました。

        その時スポーツと武道の違いがでたようです。 

        自分が三段で少しうぬぼれていてスキがあったのでしょうね。

        目が覚めても何が有ったか覚えていませんでした。」(前出徳井)

        柔道部の学生は、道上の強さに魅せられていた。そして道上に憧れを抱いて懸命に練習をした。

        「剣道の先生が学生に不人気だったのに対し、道上先生は柔道部以外の一般学生にも人気が有りました。

        偉ぶらず、こだわらず気さくでダンデイーな道上先生に憧れました」(阿久津)

        毎晩の様に道上家には生徒が入りびたり、その内居候をするものまで現れた。

         

        東亜同文書院大学の学生は、県費生、派遣生、自費生で構成されていた。

        県費生というのは、都道府県が派遣する留学生で、それぞれの県が募集・試験をして、 合格した者を同文書院に推薦する仕組みだ。

        学費は県が出す。

        派遣生は企業が出す、当然ながらマスコミも多かった。

        自費生は親からの仕送りで賄っていた。

        大体それぞれが三分の一ずつだった。

        したがって企業からの派遣生には年を食ったものもいて、中には妻子持ちもいた。

        道上が赴任した時は26歳だったから柔道部には道上より年上もいた。

         

        道上は柔道の正課と放課後の柔道部の指導に忙殺されるようになる。

        また道上が上海に来たことは直ぐに上海の日本人社会に知れ渡った。

        武専の先輩後輩が上海の軍、警察、企業、団体などにいる上、武道に興味を持つ人間は 皆道上の事を知っていた。

        そちらの付き合いも凄かった。

         

         

         

        そういったなか、道上は上海日本総領事からの依頼で、上海に 寄港していたイタリー軍艦コンテベルデ号へ行き、 甲板で水兵たちにも柔道を教えた。

        この時、道上は喧嘩自慢の若い水兵に勝負を挑まれた。

        この水兵は身長が2メートル10センチ、体重が140キロほどの恵まれた体格をしていた。

        アメリカの太平洋艦隊の選手権者であるレスラーと喧嘩をして打ち負かしたことで皆から恐れられていた。

        他の武徳会会員も彼の挑戦を避け続けていた。

         

        道上はまず、自分の得意技を試してみたが相手の身長が桁外れで手も長く効果がなかった。

        そこで巴投げを使ったらこれが見事に極まり、相手は円を描いて空を舞い落ちダメージを受けた。

         

        軍艦の上でのことだったから、彼はワンプタン川へ投げ込まれては助からないので 「その技は使わないでくれ」と通訳を通じて頼んできた。

        (上海の川は波が巻き込むので、一度川に落ちると浮いて来ないので有名だ)

         

        「その長い手で突っ張ってくるから、それに対応して私はこの巴投げを使い、きみは飛ばされるのだ」 そう道上が言うと大男は突っ張りを止めた。

        しかし、その大男は今度は別の技でガンガン投げ飛ばされることになったのだ。

         

        このようなエピソードは枚挙にいとまがなく、道上伯は東洋一強い男として上海中で評判になった。 

        以前にもまして指導依頼が相次いだ。

        大使館を通じて多くの依頼に応え、中国人、フランス人、英国人、

        フィリピン人等にも中国語、英語を使って教えた。

         

        東亜同文書院からの給料はいたって普通だったが、指導に行った

        先からは多額の謝礼が支払われた。

        しかも引っ張りだこだった。

        上海選抜での全日本大会でも一度の引き分けを除き、負け知らず。

         

        他流試合でもやはり負け知らずの道上に、柔道を通じて在留邦人、日本の軍人、中国人の有力者など、急速に人脈が広がった。

        その中で上海市長だった陳 公博(後日本に協力した漢奸として死刑となる)とも大変親しい間柄となった。

        中国経済の83%を担う上海市の市長だ。

        青の党の党首でもある。

        表経済・裏経済共に握っていた。

        彼からは少林寺拳法の秘伝書を何冊か贈られた。

         

        多くの外国人と接する中でよく「柔道とは何ぞや?」と聞かれたそうだ。

        柔よく剛を制するなどと言っても分かりにくいので心技体という言葉を使った。

        道上伯以前にこの言葉を使ったものはいない。

        道上伯によって誕生した言葉だ。

        今日、日本では誰もが知っている言葉であり、スポーツの世界では良く使われる言葉である。

         

        柔道家は強くなる為に練習する。

        日に何百回、何千回の打ち込みをする。

        その事によって身体が鍛えられる。

        技を磨き、その技を工夫する事によって技術が備わる。

        努力する事によって、強くなるし心も養われる。

         

        まさに、三位一体である。

        真に強い者は温かく、弱い者にも優しい。

        増上寺大殿での葬儀中、

        当時の道上伯を語る動画

         

         

        次回、実話とは思えない真実をあなたは読む

         

        【 道上 雄峰 】

        幼年時代フランス・ボルドーで育つ。

        当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

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