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        「古武士(もののふ) 14 東亜同文書院での毎日

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        東亜同文書院の元生徒たちで構成されている滬友会(こゆうかい)の方達は、年に一度銀座の中華料理店に集まる。

         

         

        道上伯が帰国した時は必ず皆さん数十人が集まり、道上伯を囲む。

        愚息雄峰もお手伝いで参加させて頂くと、耳をダンボにして話を聞き入った。

        皆さん「親友を持つなら 中国人」と言っていた。

         

        ある日愚息雄峰は道上伯の生徒の一人であった上田茂さん(1990年代当時古河電工社長) に会いに行った。

        「これから中国に進出したい」と言ったとたん、 「ばかやろう、いくら使うんだ?3000万か?だったら 1億損するぞ!」 1億か?だったら3億損するぞ!」 気合の入った愛情いっぱいのアドバイスだった。

         

        「親友を持つなら中国人」?

        昔の中国人は何処へ行ったのだろうか?・・?

         

        その上田さんが言っていた。

        東亜同文書院に入学した夜、先輩たちに夜の上海を案内された。

        路地に入ると地べたに座って居る「立ちんぼ」(?)が並んでいた。 スカートの中が見えた。

        ノーパンで一目で梅毒と分かった。

        どうだ、おまえら注意しないとこうなるんだ、と。 先輩による夜の勉強だった。

        とにかく何でも有りの上海。

        だからだろうか? 東亜同文書院の生徒は気合が入っている。

         

        上海は当時1940年代、世界最大の都市の一つだった。

         

         

         

        しかも戦時色が日に日に濃くなっていく中、租界の中は奇妙な中立が保たれ、 先進国の文化と中国独自の文化がないまぜになって

        徒花(あだ花)のような 刹那的享楽と退廃が町をすっぽりと包んでいた。

        あらゆる人種がが入り込んだ国際的な魔都と言われた。

         

        道上伯は上海へ赴任した時から女房小枝に言っていた。

        教師は4年で辞める、と。

        四年以上「先生」を務めると世間が見えなくなってしまう、と。

        事実彼はその通りにした。

        しかし生徒は相変わらず道上邸に入り浸って居た。 

         

        道上は衆目の見るところ、オシャレで、服装にとても気を使っているように見えた。

        「道上先生は、白い麻の背広で、すらっとしていて、いつも颯爽としていました」(徳井)

        「柔道家には珍しくオシャレでした、真っ白いシャツに、ソフトをかぶって、タクシーで出かけていました」(植前)。

        「スマートで、学生に対しても決して呼び捨てにせず、さん付けで呼び、武骨な柔道マンという感じでは無く、紳士でした」(阿久津)。

         

        冬は三つ揃いのスーツで決める。

        よく小枝と運転手付きの車でフランス租界のダンスホールに出かけた。

        この頃、東亜同文書院大学学生主事として来ていた近衛文隆などが遊び仲間だった。

        近衛は時の総理大臣近衛文麿の息子で、祖父篤麿が東亜同文書院の創始者である。

         

         

        近衛と道上はよく、フランス租界や共同租界のナイト・クラブやキャバレーで遊んだ。

        その翌朝、道上は道場で汗を流し、近衛はキャンパス内をジョギングして酒気を抜いた。

        この頃には道上は近衛から戦況を聞き日本が負ける事を知っていた。

         

        もう一人、教職員で道上と気が合ったのが、予科教授で国際法と

        外交史を教えていた重光蔵(おさむ)だった。

        重光の兄はのちに全権委員、外務大臣として参謀総長・梅津美治郎と共に、 戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に署名する事となる重光葵(まもる)である。

        1943年の夏休みに彼と一緒に内地に帰り、大分県の湯布院の旅館でのんびりと過ごした。

        その時、「このまま内地に定住して、兄貴の秘書になってくれ」と請われた。

        「俺を用心棒にするんじゃないか?」 「そうじゃないんだ」 と

        重光にあれこれ説得しようとされたが、結局道上は行かなかった。

        行っていれば政界に顔を出していたかもしれないと後に道上は振り返る。

         

        同年、南京で試合があり、同文書院の学生を連れて行ったが、

        道上自身も十人掛けをやった。

        長きに渡って、外国で十人掛けをやった日本人柔道家は聞いたことが無い。

        その時、チョミンギ外交部長(外務大臣)からも、古くて価値のある太極拳の本を六冊もらった。

         

        こうして多くの尊敬を集めた道上は、上海の主要市場の権利を手にした。

        今でいうデパートメント・ストアである。

        市場は18歳の青年に任せた。

        これにより道上は莫大な収入を得ていた。

        一方日本人が手に出来ない色んな役職を持った。

        粉麦統制会,鉄鋼統制会など複数の統制会の理事も兼ねていた。

         

        他にも石炭統制会、化学工業統制会、ゴム統制会、金融統制会、軽金属統制会、皮革統制会、油脂統制会などにも顔を出していた。

        おそらく陳公博 上海市長青の党の党首(中国を2分する青の党赤の党)によるものだと思われるが、 それだけ道上は中国人中枢に入り込み信頼と尊敬を勝ち取っていた。

         

        当時児玉誉士夫が中国に児玉機関というのを作っていた。

        何処から嗅ぎ付けて来たか、児玉が秘書を通じて道上に 「児玉が会いたがっている、会ってくれ」と、言ってきた。

        「児玉機関などというものとは接触したくない、殺し屋の集団ではないか!」 結局道上は児玉と会わなかった。

        後に自由民主党を作ったのは児玉だ、と言う人もいる。

         

        昭和十六年十二月八日、日本は太平洋戦争に突入した。

         

         

         

         

         

         

         

        【 道上 雄峰 】

        幼年時代フランス・ボルドーで育つ。

        当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。

        制作協力企業

        • ACデザイン
        • 日本クラシックソムリエ協会
        • グランソールインターナショナル
        • 草隆社
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