「古武士(もののふ) 第15話 戦争突入」
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日本人は 和食が世界一と思っている。
イタリア人はイタリア料理が世界で一番ポピュラーだと思っている。
ただ世界の常識では格から言って中華料理が一番で、二番がフランス料理だ。
中華料理は200種類以上あると言われている。
160の部族によって構成されているのだから当然かもしれない。 フランス料理は200種類には届かない。
上海人は着道楽と言われているが、実は非常な食道楽でもある。
フランス料理では豚の体重の88%を使うが、中華料理では98%を使うと言われている。
道上伯は、よほど中華料理が好きだったのだろう。
中国を離れた後でも外食は中華料理しか行かなかった。
美味しい中華料理はお店の玄関を出る時既にお腹が空き始めている。 しかし労働者が行くお店は4~5時間お腹が空かない。
油が違うんだ と よく語ってくれた。
道上にとって中華料理は良き思い出の宝庫である。
広東料理が特に美味しいんだと聞いた事はあるが、料理自体にはあまりこだわりが無かった様に見えた。
華やかな山海の珍味もさることながら、料理はやはり誰と食べるかだ。
その中国も1943年になると日に日に戦況が悪化してきた。
道上曰く、その昔中国にはロシアの方から馬賊が潜入し、 いまだ混沌が続くため、日本に助けを求め日本陸軍は乞われて中国に行った。 しかし※五族協和をうたった日本の存在が邪魔と感じた欧米列強が、 その構想を潰しにかかった。
それまでアジア内では多くの交流が今以上にあったと言う。
だとしたら欧米によるアジア統一を妨害する動きはいまだに変わっていない。
道上は生涯、日本はもっとアジアと仲良くしなければいけない、と語っていた。
そういった精神はきっと東亜同文書院時代での上海の影響によるところが大きい。
※日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人(満州族・大和族・漢族・モンゴル族・朝鮮族)
東亜同文書院には開学以来、大旅行と称する伝統があった。
卒業間近の学生を5~6人の小グループに編成して、
中国各地を調査旅行させる。
調査の目的は指導教授と相談して決め、帰って来て目的に添った
調査報告書を提出する。
これが卒業論文の代わりとなったから、学生は必ずこの大旅行に行かなければならなかった。
四百余州と言われた中国の辺地にまで踏み込むこの調査旅行を
学生たちは非常に楽しみにしていた。
反面中国当局や欧米諸国は、学生を使ってスパイ活動をしている
と警戒を怠らなかった。
それだけに対中戦争が激しくなればなるほど、危険も大きかった。
昭和16年の大旅行は、河北、山西、山東、蒙彊(もうきょう)に
各二班、 浙江、安徽(あんき)湖南各一班、江蘇、江西、福健に
各三班、湖北一班、広東六班で行われた。
しかし、調査旅行中の学生がバスで移動中、中国ゲリラ部隊の発砲により 死亡すると言う痛ましい事故に見舞われた。
またこの年から繰り上げ卒業も実施された。
さらに19年には、江南造船所に勤労動員されていた学生6人が、 米軍機の空襲を受け防空壕の中で死亡した。
そんな危険な状況の中で道上は何日もかけ寒山寺へ行った。
この時映っている写真が中国滞在中唯一の写真だ。
ポケットに入れたまま帰国。よほどの思いが有ったのだろう。
寒山寺では石碑に刻まれている「楓橋夜泊」を自身で拓本して持ち帰った。
あまり人には見せないが、道上のロマンチストな一面だ。
道上の「市場」は相変わらず拡張の勢いを止まない。
児玉誉士夫が会いたがるのも無理はない。
1945年の初め武専の一期先輩であった陸軍少佐に呼び出された。 「今日本には水銀が入っていかない。きみはだいぶ中国人を知っているから、ひとつ水銀を集めてくれないか」 「私はそんなことできる人間じゃないんだ」と、断わったが何度も頼まれるので 結局やるだけやってみることにした。
その陸軍少佐は旧陸軍中野学校の出身であった。
スパイ活動には水銀が必要不可欠だったようだ。
一度用意すると「もっと、もって来い」結局三度にわたって調達した。
当時上海で道上の手に入らないものは無かった。
結局当時の金で二百五十万円を道上は手にした。
その金は、7月に二百万円の小切手を切って日本に送った。
送り先は神戸銀行だった。
今の金で10億ぐらいだろうか(後マッカーサーの指令で没収となる)。
上海の市場の権利から比べると大した金額では無いが、世の中何が有るかわからない。
次週は「国破れて山河あり」
「楓橋夜泊」 作者:張 継
月落烏啼霜満天
江楓漁火対愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船
月落ち烏啼きて霜天に満つ 江楓(こうふう)漁火(ぎょか)愁眠(しゅうみん)に対す 姑蘇(こそ)城外の寒山寺 夜半の鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到る
月は西に落ちて闇のなかにカラスの鳴く声が 聞こえ、厳しい霜の気配は天いっぱいに満ちている 運河沿いに繁る楓と点々と灯る川のいさり火の光が、 旅の愁いの浅い眠りにチラチラかすめる。
そのとき姑蘇の町はずれの寒山寺から、 夜半を知らせる鐘の音が、私の乗る船にまで聞こえてきた
【 道上 雄峰 】
幼年時代フランス・ボルドーで育つ。
当時日本のワインが余りにもコストパフォーマンスが悪く憤りを感じ、自身での輸入販売を開始。